2007年12月27日 産経新聞(Net View)より

そのような色の違いを見極める為には多くのフィルターを通してものごとを見つめてみることが必要だ。様々な色合いを比較しながら自ら“真実の色”を見つけていく。“事実”はフィルターを通さずには決して報道されない。勿論、自分自身も“フィルター”の一つである。自らのフィルターは自らの力、努力で“改良”していかなければならない。ほっぽらかしておくと必ず濁ってくる。“屈折率”も激しくなるし、それよりも“透過率”が悪くなる。100の光が通過しても半分の光も感受できなくなってしまうかもしれない。それに“色盲”にもなりかねない。日ごろの鍛錬・手入れが肝要である。

何れにしろ『日本復帰にめどがついたら、琉球独立論が噴出した。沖縄の右派も左派も、沖縄は薩摩藩による琉球征伐、廃藩置県、沖縄戦の3つの犠牲になったという「恨み」と「反感」は共通していた…』という記事には驚かされた。そして記事は続けて「…左右双方がその思いを表現する手段として地元紙を使った」と記されている。これでは“筋金入りの左翼新聞”ではないか。おそらく“赤”の色しか通さないプリズムを所有しているのかもしれない。兎も角、「恨み」と「反感」では正しく“小中華思想の発想”である。何等かの“共産主義思想”か“中華思想”が浸潤しているとしか思えない。これは大変に恐ろしいことである。
※注; 後日、加筆修正予定。
2007年12月27日 産経新聞(Net View)より

沖縄の人たちには是非、インターネットを活用してもらいたい。今のところ情報操作がし難い媒体である。様々なニュースソースを比較していただきたい。そうすれば何が虚報かは自ずと理解できるようになるであろう。
もし、インターネットがなければ“朝日新聞”は未だに発行部数首位の座を保っていたことであろう。“TBSのニュース番組”も高視聴率を確保していたのではないであろうか。“NHK”でさえこれほど信頼を失うこともなかったのではあるまいか。とはいっても私は“NHK”をある程度は信頼している。時たま“とんでもない番組”も作るがそれ以上に“良い番組”が多いような気がする。伊達に高い給料はもらっていない。それなりに優秀な方々が多くいるのであろう。確かに、番組だけに限らず“とんでもない人たち”もちらほらいるようではあるが“TBS”に比べれば立派な放送局であると私は思う。だから“受信料”は確りと支払っている。
2007年12月27日 産経新聞(Net View)より

「この記述をなくそうとしている人たちは、沖縄戦を経験したおじい、おばあがウソをついている言いたいのか」と「9月29日の県民大会で、高校3年生の2人が集団自決に関する教科書検定を批判するシーン」を「繰り返しテレビ各局が放映」したらしい。しかし『…検定意見がついた背景に、元琉球政府職員の照屋昇雄氏らの新証言があったことを知っていたのはわずか17%。8割の人が「知らない」と答えた。』ということらしい。
結果、『検定意見は「軍が(自決を)命令したかは明らかとはいえない」と指摘したにすぎない』にも拘らず、「多数の県民は報道を通じ、集団自決そのものが抹消されたと誤解している。…」らしい。そしてその原因は「…地元紙は、検定対象が軍命令の有無であることをストレートに報道してこなかった」ことであるようだ。

色々なことがあるのであろう。兎に角“集団自決は日本軍の命令”としておけばいらぬ憎しみも生まれてはこない。このことは“日本国”として受け入れるべき事柄なのかもしれない。“沖縄の集団自決”に限らず、大陸も含めた日本の各地で“集団自決”は行われた。それら全てを私たちは“日本軍の命令(強制・教育)”として受け止める必要があるのかもしれない。たとえそのことが史実に反することであったとしても。
ただ、私としては是非、沖縄の人たちに“事実”を見つめてもらいたい。“事実”を見つめ“真実”を手に握り締めていただきたい。たとえそのことが多大な苦痛を齎すものであったとしても“事実”は“事実”として確りと受け止めていただきたい。もしその為に未だ時の経過が必要だというならばそれはそれで致し方ない。無理に事実を明らかにすることはない。沖縄の人たちが自ら“事実”を拾い上げるまで待とうではないか。
しかし、意図的なマスメディアの報道はいただけない。殊に“沖縄タイムス”の報道姿勢には大いなる疑問を感じる。沖縄の人たちの心をもてあぞぶのだけは止めてもらいたい。
2007年12月27日 産経新聞(Net View)より

黙殺された当事者証言

それはさておき、この沖縄タイムズ社編の「鉄の暴風ー沖縄戦紀」がいかにいい加減な本であるかは記事を読めば一目瞭然である。この著作に実名で登場する知念朝睦氏は「沖縄タイムズの記者が私に取材を申し込んだり、話を聞きに来たりしたことは全然無かった。…」と語っている。

だが、知念氏は実際には「そんな隊長命令はなかった。渡嘉敷島の人からも、戦友からも聞いたことがない」と証言し、軍命令の存在を明確に否定している。』
即ち、『この証言によれば、沖縄タイムスは現場を知る生き証人である知念氏を一度も取材しないまま知念氏が軍命令を聞いたと決めつけ、その心中まで推し量って本を書いたことになる。』
また、『沖縄の新聞やテレビは、私のような体験談や意見を全く流さない』と、沖縄戦の生き証人である知念氏は指摘する。
さらに、『戦後の琉球政府で旧軍人軍属資格審査員として軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった“照屋昇雄氏”』は『「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するために、軍による命令ということにし、自分たちで書類をつくった」ことを証言し、当事者として軍命令説を否定』すると同時に、照屋氏ご自身が一週間にわたり住民の聞き取り調査を行った結果『隊長命令があったと言った人は1人もいない。これは断言する』と語っておられる。

このような不可解な現象は今般の「沖縄集団自決」に限らず「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」でも見られる共通した図式だ。“歴史の捏造”は“共産主義者(マルキスト)”の常套手段である。目的の為なら手段を選ばない。これが共産主義者の本質でもある。基本的人権を無視し、世の中を混乱に陥れるのが“共産主義者”であり“原理主義者”である。 ロシア革命を見るが良い。ロマノフ王朝の凄惨な終焉を。文化大革命の大量殺戮を忘れてはならない。今も続くチベットへの侵略や法輪功への弾圧を。共産主義者の人命を蔑ろにするエゴイスティックな残虐性を数え上げていたら切りがない。
マルキストの謀略に騙されるな!
2007年12月27日 産経新聞(Net View)より

現代史家の秦郁彦氏は「玉虫色の結論」と評価されている。将に「官僚的な結論」とでも言おうか「事なかれ主義を貫いた」ということであろう。そして政治評論家の屋山太郎氏は「最終的な記述内容に特に異論はない。だが、新しい事実や証言が出てきたわけでもなく、訂正申請がなぜ行われたのか理解に苦しむ。訂正申請した教科書会社側も、受理した文科省・検定審側もお互いに“政治的行為”を行った。今後も同様の事態を認めれば、教科書記述はいくらでも変えられることになる。本来はあり得ない措置だ」と皮肉を込めた正論を述べられている。また、藤岡信勝氏は「最悪の結果」と語り「福田首相と渡海文科相の責任は重大だ」とさらに問題を掘り下げた視点から辛辣な意見を述べられておられる。
それぞれに傾聴に値する貴重なご意見である。期せずしてこのお三方は私の大切なオピニオンリーダーの方々でもある。
何れにしろ屋山氏の言葉をお借りすれば“政治的行為”ということになろうが“左翼と官僚の共同謀議”であることは確かなようだ。そこに若干政治家も参加しているのかもしれないけれども、たてまえは“政治は不参入(不参加)”であるはずであるので、ここではとやかく言うことは控えよう。
それはそれとして、何か“沖縄”がおかしい。もしかしたら“左翼の巣窟”になってしまっているのであろうか。心配である。
2007年12月27日 産経新聞(Net View)より

少し記事を読み進めてみる。
『沖縄集団自決をめぐり、教科書会社から出された訂正申請が、検定審議会で承認された。』
「承認!?」。冗談でしょう…。
『当初の検定意見は、集団自決が日本軍の命令によって強制的に行われたとする誤った記述に対して付されたものだ。』
なのに…「“誤り”を承認?!」
『これでは、検定は何だったのかとの疑問を指摘されてもやむを得まい。』
もっともだ。
『文部科学省は訂正申請を認めた理由を「住民の側から見て心理的に強制的な状況のもとで、集団自決に追い込まれたと読み取れる」などと説明しているが、国民には分かりにくい。』
これは「官僚的な意図的悪文」である。即ち「意味不明」、「言い逃れ」、「無責任」。『…集団自決が日本軍の命令によって強制的に行われたとする誤った記述…』

だとすれば、明らかな逸脱行為ではないか!
『審議会には、沖縄戦に詳しい専門家9人の意見書が提出され、日本史小委員会だけでも7回も開かれた。事実上の“二重検定”であり、それ自体、検定制度を逸脱している疑いが強い。』
この記事が正しければ明らかなる二重検定であり検定制度に対する逸脱行為である。将に“官僚”の思うがままである。この件で文部科学省は幾つ“天下り先”を確保したのであろうか。是非教えてもらいたいものである。
『…まだ米軍来攻が予測されていなかった時期に自決用の手榴弾が配られたという住民の不確かな証言まで、教科書に載ることになった。』
それは無いであろう。いくらなんでも“教科書”にそのような“不確かな事実”が検証されることなく掲載されることはあり得ない。あってはならない。これでは何処かの政治団体の機関紙と変わりがない。少なくとも“自由主義”を標榜する“民主主義”の世の中では考えられないことである。
『検定に対する不服申し立てを一部でも認めるような誤った対応を、二度と繰り返してはならない。』
期せずして日本社会の宿痾を見せつけられる思いを感じた。先ずは、今の“官僚主導型社会体質”を打破しない限り同じことが繰り返されるであろう。良い“前例”が出来てしまった。
そして、日本・日本人の敵が“敗戦利得者”と“官僚体質”であることことを改めて知らされた。
日本の国から「悪徳“敗戦利得者”(マルキスト)」と「“官僚(宦官)”体質」を駆逐しよう!
12月27日 産経新聞(Net View)より

「考えてみれば、敷地が3倍、展示面積が12倍、写真を6倍(3500枚)にふやしたから、怪しげな展示品でも撤去する余裕はないのだろう」。新たに「日中友好コーナー」も新設したらしい。記念館の活動に貢献した「日本人も4人」紹介されているということである。一人は「本多勝一先生」、後3人は一体誰なのであろうか。それから開会式の式典には「日本からの400人」が参加しているらしいが、ただし「日本から」と記されており「日本人」とは説明されていない。少し安らぎを覚える。まさか「日本人」が400人も“中国共産党のプロパガンダ式典”に参加する為にわざわざ中国旅行をするはずがない。おそらく日本嫌いの日本で活動する「工作員の方々」であろう。

何れにしても日本の政治家や官僚はこのような中国の「硬軟自在なしたたかな対日外交」を是非とも見習うべきではないであろうか。胡錦涛国家主席なり中国共産党員のつめの垢でも煎じて呑んでみてもらいたい。そうすれば少しは“国の為の政治なり外交”が出来るようになるかもしれない。“毒をもって毒を制す”である。少なくとも今までのような政治家や官僚による“無知で身勝手な謝罪外交”はなくなるであろう。
等と、考えたくもないことを考えてしまうほど“不甲斐ない日本の政治と外交”の現実がある。全ては先の“敗戦”に起因することとはいえ、何時まで臥薪嘗胆、隠忍自重をしていればよいのであろうか。もうそろそろ“敗戦国・日本”も起ちあがる秋(とき)であろう。“事実・真実”を手に“誠の心”を持って“不義”には“義”の精神により立ち向かわなければならない。このことがこれからの“日本・日本人”の求められる生き方であり、使命でもあると私は考えている。
2007年12月27日 産経新聞(Net View)より

「日本軍は、日本軍に、日本軍による、日本軍の方針が」と、何が何でも「日本軍の所為」にしたいらしい。このような考え方を「原理主義」という。そしてそのような者を「原理主義者」と呼ぶ。「マルキスト」はいわば「原理主義者」である。「原理主義者」は「資本論」とは言わないまでも「唯物論」を信奉し「東京裁判史観」を「経典」として崇め奉る。そして「日本悪玉史観」を喧伝することによって自らの「悪行」を隠蔽し、「戦後体制」を維持することによって「既得権益」を守ろうとしている。このような“愚行”が今も繰り返し行われている。同じ「敗戦利得者」たちの支援を受けながら。
“史実”を歪め“真実”を隠蔽して捏造することが彼等が生き残る為の唯一の道である。だからこそ彼らは必死に“歴史を捏造”して抵抗する。彼等の目指す“ユートピア”は“理念の中の物語”である。そこには“全人格的な人間”はいない。いるのは“偏った不完全な人間”だけである。人は現実世界の中で生きているのであって、決して“理念”の中で生きているのではない。“理念”は“現実”の中で育まれるものであって、“現実を蔑ろにした理念”の中からは“私たちが望む現実”は生まれてこない。そのことは歴史が教えてくれている。“理念”と“現実”を取り違えた“本末転倒”の結果、多くの悲劇が私たちの眼前に訪れ、尊い命が失われている。このことが彼等には分からない。“敗戦利得者”は身勝手な“エゴイスト”であり、正真正銘の“偽善者”である。“原理主義者”は人々の間に“軋轢”を齎し、平和な世の中の育成を阻害して多くの惨劇を惹き起こす。
2007年12月29日 産経新聞(Net View)より

中華人民共和国は国連の常任理事国でもある。今は経済的にも“黒字大国”でもある。対して我が国、日本国は、800兆円にも上る“政治家と官僚の無能・無策と汚職”が創り上げた多大な借金を抱える“赤字大国”である。
さらに中華人民共和国は既に“有人宇宙船”を打ち上げ、“月探査衛星”まで飛ばし、“自国ミサイルで衛星を破壊”して、多大な脅威と迷惑を世界の国々に与えている。また、中国海軍は今も世界中を外洋航海しており、核兵器も大量に保有して、世界に冠たる“軍事大国”に成り上がっている。民生(?)の技術力も“新幹線もどき”の時速300キロメートルの巡行列車を“自国技術”で完成させ、その技術力を世界に誇っている国である。そのような“中華人民共和国”に日本が“環境協力”とは片腹痛い。

兎にも角にも「真の互恵関係」を構築しようとするならば、先ずは“歴史の捏造”に基づく「反日歴史教育」は止めていただきたい。
『…そのためには中国に江沢民政権時代からの反日歴史教育の見直しを求めたい。このほどの拡張改修工事を終えた「南京大虐殺記念館」には、旧日本軍の残虐性を強調する展示物がさらに増えたという。中国の真意に疑問符がつく。』
将に同意見である。ただし“中国の真意”について私は“疑問符”は付けない。
2007年12月29日 産経新聞(Net View)より

が、しかし、どうやらそうでもなさそうである。「中国が、気候変動の国際的枠組みに積極参加することが必要不可欠」と現状の中国による世界的な環境破壊行為をたしなめていることや「国連安保理を改革することも課題」だとか「透明性を高めることを通じ、相互不信の芽を摘み、信頼醸成をはぐくむことが求められる」等と積極的に中国の対応の“非”を言挙げしていることには驚かされるが、「人権、法治、民主主義といった普遍的価値を共に追究することも重要。」とは一体何を言っているのであろうか、我が国の福田首相は。中華人民共和国というよりもシナ文明は有史以来、“人権”も“民主主義”も蔑ろにしてきている“人治”の国であり、“人権、法治、民主主義”を“普遍的価値”などとは考えたことも無い文化・文明を有する国である。そのような“未成熟な国家・国民”に対して「追究することも重要」とは如何なことか。先ずは“普遍的価値”を教え諭す”必要があるのでは無いであろうか。将にこれでは“馬の耳に念仏”である。
また、「日中両国に深く埋め込まれた共通の基盤、価値に思いを致すことも大切だ。」も意味が分からない。日本国の首相として、はっきりと分かりやすい言葉で説明してもらいたい。まさか「日中両国に深く埋め込まれた共通の基盤、価値」とは「経済的な利益」だけのことを言っているのではないとは思うが、私にはそれ以外の事柄が思い浮かばない。
もしかしたら、日本国の福田首相は中華人民共和国が“共産党一党独裁政権の非民主主義国家”であることを忘れてしまっているのではないであろうか。
一国の首相たるもの“強い信念”もさることながら“強い良識”も兼ね備えて持っていただきたい。
“中華人民共和国”、及び“中華思想に拘泥するの人々”は「長い歴史の中で不幸な時期があっても、しっかり直視し、子孫に伝えていくことが責務だ。」と確りと自覚して行動していただきたい。そして“被害者の気持ちおもんばかる謙虚さ”を是非とも身に付けていただきたい。なぜならば、“中華人民共和国、並びに中華民族”は、人類の歴史において往々にして“被害者”ではなく“加害者”なのであるから。

『もはや「海軍による親善外交」と呼ぶには武張りすぎている。米海軍などのように、自国から遠く離れた洋上でも長期作戦可能な「ブルーウォーター・ネービー(外洋海軍)へと、完全に足を踏み入れたのだ。」』という見識にも妥当性がある。
歴史を振りかえってみよう。如何に日本が“中国国民党”と“中国共産党”に苦しめられたかを。“中国国民党”の裏にはアメリカがいてイギリスがいた。そして“中国共産党”の裏にはソビエト(現ロシア)がいてアメリカも加勢した。いわゆる「死の商人」である。
武器を貸与なり販売すれば、その購入先は「お客様」である。代金は決済してもらわなければならないし、それなりの見返りも当然のことながら求めるであろう。
先の大戦期間中、アメリカ及びヨーロッパ諸国、即ち連合国(UN)は多くの武器を“中国国民党”と“中国共産党”に提供した。だから勝ってもらわなければならないのである。負けたら債務不履行の不良債権になってしまう。このことがアメリカの第二次世界大戦への参戦の大きな理由の一つであった。イギリスへの多大な支援がドイツの快進撃により無に帰してしまう可能性があった。だからといって時の大統領は「二度と戦争には参戦しない」との公約を掲げていたので無闇には参戦ができない。ドイツはなかなか“謀略”に乗ってこない。そこで“お人よしの生意気な黄色人種の日本”を相手に得意の「リメンバー作戦」を用いやっとの思いで戦争に参加することができた。「リメンバー・アラモ(テキサス独立戦争)」、「リメンバー・メイン号(米西戦争)」、「リメンバー・パールハーバー(第二次世界大戦)」、「リメンバー・トンキン湾(ベトナム戦争)」、そして「リメンバー・9.11(イラク戦争)」である。アメリカにとって戦争は大きな“公共事業”である。“軍産共同体のお国柄”がここで一気に力を発揮する。結果、アメリカは“不況から脱却”した。
尚、日本は既に“真珠湾(軍港)攻撃”の前からアメリカとは一戦を交えていた。シナ大陸における“フライング・タイガース”は“アメリカ製の戦闘機とアメリカ人の戦闘員”による“日本軍への攻撃部隊”である。
そして、日本は自らの生存を賭けた自衛の為の戦争を必死で戦い続けた。アメリカの戦後の覇権をめぐる“意図的な原爆投下”が実行され、ソ連軍が“侵略戦争”を開始するまで。そして完膚なきまでの痛手を蒙ってしまった。
戦後、連合国は自らの“間違い”に気が付いた。真の敵は“日本軍”ではなく「共産主義者」であったことに。しかし時、既に遅し。“東亜の防波堤たる日本国”を壊滅状態に追い込んでしまったからには、“共産主義者の侵略”は留まることを知らず押し寄せてきてしまった。ここに戦後の悲劇が始まる。
“中華人民共和国”は“共産主義者”の巣窟である。
“中華思想”は“共産主義”の温床であり血縁である。
“msn産経ニュース”より
福田首相と胡主席 会談の主なやりとり
2007.12.29 11:09
…中国政府と私個人は一貫して中日関係を非常に重視しており、福田首相の訪中、自分の訪日のチャンスをつかみ、歴史をかがみとし、未来に向かうとの精神のもと、ともに努力して戦略的互恵関係を構築していきたい。…
胡錦濤国家主席の言葉である。中国共産党の要人が『歴史をかがみとし』との文言を披瀝する時の真意は、
『学術的な歴史観などはどうでもよい。中国共産党の捏造史観を承認して奉れ』
ということである。これが“中共の真意”であり“シナ文明の本質”でもある。未だに前近代的な“中華思想”に囚われたままの国、それが“現在の中華人民共和国という中国共産党一党独裁政権の非民主主義・侵略・覇権国家の真の姿”である。
少なくとも今の「中共」には“民意”により選ばれた為政者は一人もいない。このような当たり前の事実を理解できない政治家や官僚や知識人が日本には数多くいる。非常に嘆かわしいことである。
中国に4000年の歴史などはありようわけがない。俗に言う“中国”とは現代において“中華人民共和国”のことであり、その歴史は僅か60年足らずである。“中国”にあるのは“王朝の興亡の歴史”であって現代で言うところの“国”の歴史ではない。即ち“未熟な国家”が今の“中国(中共)”なのである。そして、その“未熟さ”を醸成し助長してきたのが“中華思想”であり“中華民族が有するその傲慢さと凶暴さ”である。
姿かたちは似ていても“中華民族”と“日本民族”はその“思想・信条”、及び“行動様式”は大きく異なる。確かに相補関係はあるにしても、その“文化”は異なり“文明”は大きく違う。
このような現実・事実を確りと認識することが必要である。違いを理解し認め合ってこそ“友好関係”は生まれる。無理して“同属”になろうとする必要はない。寧ろ弊害の方が多く生まれてしまう。このことは歴史を振り返れば自ずから理解できることであろう。
今の中国(中共)には「学術的な歴史(観)」は存在しない。あるのは「政治的な歴史(観)」だけである。
2007年12月28日 産経新聞(Net View)より

“戦後民主主義”がこのような官僚を造り出した。“戦後体制”がこのような唾棄すべき人間を養生した。だからこそ“戦後レジーム(体制)からの脱却”が必要であり“日本悪玉史観”からの解放が重要になる。
このことは“事実・真実”を捉えさえすれば簡単に実現する。しかし、その“事実・真実を隠蔽し捏造する勢力”が未だに力を発揮している。政治の世界にもマスコミの世界にもそのような“悪魔”は多数存在する。“悪魔”は自らが“悪魔”であることを自覚していない。それは“事実が歪曲され真実が捏造されている”からであり、残念ながら悪魔の自発的な覚醒は望めない。なぜならば“歪曲された事実、捏造された真実を基に生命を育んでいる”からである。“事実・真実”を掴むことは自らの死滅に繋がる。だからこそ事実を歪曲し、真実を捏造する。そのことが生きる糧なのである。そして自らの延命を願いながら“自由・平等・人権・平和”の美名の下に“不自由”で“不平等”で“人権を無視”した“争いの絶えない特権階級だけのユートピア”を創り上げようと活動している。

その“マルキストもどき”の“卑怯者のエゴイスト”が屯する代表的な集団が「官僚組織」である。“官僚組織の構成員(官僚・公務員)”は“戦後体制”の下、自らの成功体験に縋りながら、人間(社会)の本質(本分)を取り違え、エリート意識が放逸した身勝手なエゴイストに成り下がり、仲間意識だけが異常に強く、自らが獲得した既得権益を国民の血を啜りながら擁護することを生業とし、本来の使命を忘却して平然と個人的安寧だけを追い求めている。このような“学業秀才”が日本を食いつくし国民を地獄へと突き落とす。そして自らの責任は他所に転嫁し、平然と時を過ごす忍耐力だけは一人前である。
本来の“官僚の使命”は国民の代表たる政治家の手足となり“国民の生命財産”を守ることにあるにも拘らず、自らの権益を一義的に考え、“国民の代表たる政治家の手足となること”は二の次、“国民の生命財産”を守ること”至っては三の次にされてしまっている。そのような本末転倒の仕草がまるで当然の“権利”であるかのような振る舞いさえもしている。
「官僚体質」が日本を駄目にし、国民に苦しみを与える源泉である。このことの「真実」に早く気が付かなければならない。先の大戦による多くの惨害を齎した原因は全てはこの「官僚体質」にあった。「官僚体質」だけが戦後、改革されること無く生き残ってきた。将に前近代の遺物である。我々に多くの災厄を齎した源が未だに生き続けている。
「官僚体質」こそが改革されるべき「本丸」である。このこと無くして真の平和な世の中は訪れることは無い。無責任な「官僚体質」を撲滅しなければならない。そのことができるのは「民意」しかあり得ない。“官僚体質”を“民意の力”で撲滅してこそ民主主義を標榜できる。“民主主義”は“勝ち取るもの”であって決して“与えられるもの”ではない。
2007年12月28日 産経新聞(Net View)より

また、それらの“お偉い先生方”は、自らが尊敬してやまない毛沢東が『南京攻略戦の半年後、延安で行った「持久戦論」の講義のなかで、「日本は包囲は多いが殲滅は少ない」といって、日本の戦争下手を批判した』にも拘らず、『日本軍は12秒に一人中国人を虐殺した』と“学術的(?)”に論じている。日本軍は“原爆”も使わずにそのような大量殺戮を短期間にやってのけた。将に日本軍は“殺戮の天才”である。毛沢東は間違っていた。とでも言いたいのであろうか。
おそらくそのような“お偉い先生方”は『未来永劫日本を糾弾する材料にする中国側の決意』を知り、さぞやほくそ笑んでおられることであろう。

また『①徴発は司令部の目撃できる範囲で行え ②住民のいる所では3分の1以内の徴発にとどめよ ③住民のいないところでは扉を壊して家屋内に入ってはいけない ④徴発した物の明細を残し、あとで住民の請求に応じて宣撫班が代金の支払いができるようにせよ ⑤帰隊後伝票と現物の照合を受けよ』との軍の指令(軍命令)を受けていたことや『捕虜ハセヌ方針』に基づいて「輜重兵に収容所の警備を任せていた」事実も知らないわけはなかろう。
まさか、“実際に戦闘に参加していた日本兵の証言”は聞かずに“シナ人や共産党員だけの証言”に基づいて「悪逆非道な日本軍・南京大虐殺」を声高に論じているわけではあるまいが、“事実”を紐解いていくと大いに疑問が残る。もしそのようなことで「悪逆非道な日本軍・南京大虐殺」を主張するのであれば、最早それは「学術」とはいえない。それらの主張は「政治的なプロパガンダ」以外の何ものでもない。
何か“敗戦利得者”たちの“やり方”は“マルキスト”や“中華民族”に非常によく似ている。彼らは常套手段である“歴史の捏造”を拠り所にして自らの生存の根拠を確立することに躍起になっている。従ってこれらの“敗戦利得者”たちにとっては何時までも“日本軍は悪逆非道”であってもらわなければならず、“日本悪玉史観”を堅持することで自らの権益の維持が可能になる。だからこそ“事実を歪曲し捏造”さえも平然と行う。即ち、“身勝手な偽善者”以外の何ものでもない。
このような“身勝手な偽善者の卑怯者”が“学者を気取るお偉い先生方”だけならば未だ救われるが、今の日本には“政治家”にも“官僚”にも“マスメディア人”にも数多く存在する。
2007年12月27日 産経新聞(Net View)より

是非中国には「馬鹿にするな!」と日本の技術協力の提案を拒否していただきたい。何せ世界に冠たる軍事大国であり、核保有国でもあり、有人宇宙船や月探査衛星も打ち上げている技術大国でもあり、経済的にも黒字大国なのである。日本からの技術提携などはその自尊心からしてみても到底受け入れられるものではないはずだ。
そもそも、問題の本質からして間違っている。「毒性食品の流入を阻止」を日本がするのではなく、「毒性食品の生産・輸出を取り止める」ことを中国政府が行うことが先決である。「軍事大国・技術大国・経済大国の中華人民共和国」ができないわけがない。
「来夏に北京オリンピックを控え、国の威信をかけて安全対策に取り組む中国政府を側面支援することで、日中関係の強化につなげる思惑もある。」等という文言は“中国に利権を有する国辱的な政治家や官僚の言葉”としてしか私には受け取れない。もし中国が本気で安全対策に取り組んでいるのだとすれば、日本が“提案”する以前に中国側から“要請”してくるのが当たり前のことである。中国側からの“要請”もないのに“提案”を行い国民の血税を使うとは日本国の福田首相は何を考えているのか。国民を愚弄するのもいい加減にしてくれ。


目先の経済的利益を追い求めているだけでは真の友好関係は生まれてこない。先ずは“共産党一党独裁政権”を打ち崩し、“南京大虐殺記念館”のような“反日施設”は撤去して、中国の多くの人たちによる民意が反映された“民主主義国家の樹立”こそが必要なことであり、そのための支援ならば力の限り行うことが日本の使命かもしれない。
しかし、今の日本政府の行っている経済的にしろ技術的にしろ中華人民共和国に対しての支援は“中国共産党の政権維持能力を高め民主主義国家樹立の為には決して有効に活用されていない”ように見える。日本からの3兆を超える経済的支援も、新幹線の技術協力も“中国共産党の実績”とはなりえても“日本の貢献”とは成り得ていない。このことの現実を確りと認識しなければならない。
2007年12月27日 産経新聞(Net View)より

『電動リクライニングベッドは使用しないときはコンセントを抜き、子供がベッドで遊ばないようにしてほしい」と注意を呼びかけている。』等と悠長なことを言っている時ではない。日本の食品偽装問題とは違って食品も含む“中国製品”では世界中で多くの人命が失われている。その数は100人や200人の規模ではない。
中国利権に屯する政治家、官僚、マスコミ人よ、いい加減に国民を欺くのは止めてくれ!今私たちがしなければならないことは国を挙げての“中国製品の不買運動”である。それが真の日本のための行動であり、そしてそのことが唯一の中国に対する正しい対応である。
“中国製品の危険性”を“日本の偽装問題”で隠蔽するな!
「韓国・北朝鮮の偏狭なナショナリズム」
韓国の日本大使館前で行われた“反戦市民団体”の抗議活動の模様らしい。時たまお邪魔する“特亜を斬る”に掲載されていた。
このプラカードにある“北東アジアの平和を破壊する”のは先ずは「中国共産党の覇権主義」であり、次に「韓国・北朝鮮の偏狭なナショナリズム」である。このような“自明の理”も分からないらしい。矢張り“北朝鮮等の工作員”なのかもしれない。彼等彼女等は“平和・人権の美名”の下に虚報を垂れ流し、自らの権益の確保の為に“日本を非難する”ことによって飯を食っている輩である。即ち“反日が商売”なのである。12月26日付“特亜を斬る”より
“反日が商売”として成立しないようにしなければいけない。しかし、困ったことに“反日を商売としている恥知らずの日本人”が日本の国内にも多くいる。信じられないことではあるが、日本に生まれて日本で生活をしていながら反日を唱えているそれらの“恥知らずの幸せな日本人”を幇助、支援、或いは先導する“とんでもないマスメディア”と“進歩的と称される無知な知識人”と、何と、“腹黒い政治家”や“宦官に成り下がった国家官僚”までがうじゃうじゃいる。そして往々にしてそれらの“いかれた方々”は“親中”や“親韓”を声高に叫ぶ傾向がある。おそらく“親中・親韓”が利権の対象になっているからであろうが、先ずは国民の利益なり国益が優先されなければならないことが理解ができていないようだ。また、それにもまして“国民の生命財産の保護・育成”よりも自らが所属する組織・団体の“党益・省益等”をいの一番に考える“お偉方”さえもいらっしゃる。殊に日本の国家官僚はこのような“不思議な方”ばかりであるような思いがする。厚生労働省然り、外務省(害務省?)然り、国交省然り、日本の官公庁に勤めるいわゆる“高級官僚”は殆どが“頭がいかれている”としか考えられない。おそらく“戦後民主主義の弊害”であろう。
何れにしろ、このような“似非平和団体”は“日本を非難”しても“中華人民共和国”や“北朝鮮”は決して非難しない。この現実を確りと認識しなければならない。自ずから“真実”は見えてくはずである。また、アメリカやロシアも非難しないことが多い。なぜならば“しっぺ返しが怖い”からであり、また“金(かね)にならない”からでもある。即ち“商売として成り立たない”ということだ。
日本は“ODA”も含め“核保有”も真剣に考える時にきている。もし“連合国(国連)の常任理事国”に本気でなりたいと思うのならば、それ相応の“資格”が必要であろう。インドにはその“資格”がある。日本もそろそろ“世界の現実”を見極めなければならない。先ずは“敵国条項”の死文化で満足することなく、完全なる廃棄を実現してこその“連合国(国連)至上主義”である。即ち、“連合国(国連)”の不条理な独裁体制の元になっている“常任理事国の否認権”を払拭し、真の国際協調の運営を実現する為にも“連合国(国連)の改革”こそが必要なことである。非民主主義国家である“中華人民共和国”が常任理事国の一員であることを忘れてはならない。また強権政治の“ロシア(旧ソビエト連邦)”さえもその一員である。
日本は“連合国(国連)”に頼ることなく独自の道を再び模索する秋(とき)に来ているのかもしれない。勿論、それは過去の大日本帝国のように“武力”に頼るのではなく「日本の心・日本の文化」を世界へ広めることで可能になってくるのではないかと最近、夢を見ることが多くなってきた。「真の世界平和」の為には「日本の心・日本の文化・文明」が必要である。しかし、その為には先ずは日本人自身が戦後の呪縛から解放されて「日本の心」を取り戻すことが肝要だ。そして「日本の文化・文明」を再構築し直し、世界に誇れる「誠の日本の心」を新たに創り出さなければならない。その為の教えは先人たちが数多く残してくれている。後はただ真摯な気持ちでその教えを拾い集めるだけでよい。そしてその珠玉の歴史を積み重ねていけば自ずから「世界に誇れる日本の心」が出来上がる。後は沈黙することなく語り続けるだけでよい。語り継ぐことも必要だ。いわば“言挙げ”が世界の安寧の為の、世界平和の為の“日本の武器”になる。
などなどと、このような“理不尽な反日策動”に出遭うたびに、現実には“幻想の世界の出来事”と言われてもしようがないような事柄に思いを馳せることが多くなってきた。しかし、“幻想の世界”だけに留めておくのは惜しい。是非“現実の世界”にしたいものだ。「日本の心」はそれだけの可能性を秘めていると私は信じるようになってきた。
先ずは「日本の心」を知ること。そして、「偏狭な共産主義(コミュニズム)やナショナリズム」をこの世界から撲滅すること。その為にには「日本の心」を学びながらも“言挙げ”を実践することも必要であろう。
「中華思想」と「共産主義(コミュニズム)」、そして
「韓国・北朝鮮の偏狭なナショナリズム」である。
“敗戦利得者”と“マルキスト”等による謀略である。
「沖縄の集団自決」は何故起こったか。「敗戦利得者」や「左翼の人間」が声高に叫ぶ「日本軍の関与」の主張を聞くたびに日本人の一人として忸怩たる思いを強くする。
なぜならばそこには、“事実”を見て見ぬ振りをしながら“論理のすり替え”を行い“責任を転嫁”して、自らの「既得権益」を擁護し続けている“卑怯者”の“偽善者”の“日本人”が屯している“醜い現実”が垣間見られるからである。将に“戦後民主主義の残滓”ということ以外に言葉が無い。
敢えてその真の理由を述べるとするならば、それは「アメリカ軍の無差別砲爆撃」により齎された悲劇であり、それ以外の何ものでもない。そして“戦後の価値観”から考えればその“民間人(非戦闘員)の殺戮”を含めての“アメリカ軍による悪逆非道な砲爆撃”が何故されたのかというと、それは「アメリカの極東政策」の一環であり、且つ「アメリカの世界戦略」上の当然の“戦争行為”であったということだ。このことは日本への「無差別爆撃」及び「原爆投下」においても然りである。
だからこそ“戦争”は二度と起こしてはいけない。このことだけが真実なのである。戦争は“人間の最たる愚行”以外の何ものでもない。
また、戦争に勝った方が正しくて負けたから正しくないということは決して無い。何時までも“日本軍”なり“アメリカ”を怨んでいたところで“平和な未来世界”を築きあげることはできない。そればかりか何時までも“事実”を見つめようともせず“真実”を蔑ろにして「日本軍の所為で集団自決が起こった」等と喧伝して自らを誤魔化していたのでは何れ同じ間違いを引き起こす結果にもまりかねない。“日本(枢軸国)”も悪い。そして“アメリカ(連合国)”も悪い。
寧ろ根源的には今般の「沖縄集団自決騒動」に見られるような「敗戦利得者」や「マルキスト」の「思想・観念」こそが先の大戦を引き起こし、様々な悲劇を齎した温床であると私は考えている。
即ち、誤解されることを恐れずに言わせてもらえば、「沖縄の集団自決」の原因は「日本軍の関与」というような“矮小化された事実”ではなく「戦争そのもの」であり、当然のこととして「日本軍の関与」もあれば「アメリカ軍の関与」もあり、有り体に言えば「日本軍よりもアメリカ軍」にその多くの責任はある。少なくとも「日本軍の関与」を声高に叫ぶ人たちは何故に「アメリカ軍の関与」については口を閉ざしているのであろうか。往々にして「反日(日本悪玉史観)」を唱える方々にはこのような偏りが多く散見する。
要は「日本軍」でも「アメリカ軍」でも「戦争そのもの」でも何でもよい。自らに“利する”ものであるならば、“事実”を捏造してでも“自分勝手な歴史物語”を創り上げる。これは“共産主義の常套手段”であり“行動原理”でもある。だからこそ私はそのような人たちを“マルキスト”と呼ぶ。マルキストにとって歴史はあくまでも“政治”であり学問ではない。自らの権益を獲得し、そして既得権益を維持し最大化する為の“道具”にしか過ぎない。
また、“共産主義”と“中華思想”には共通点が多く見られる。一つに、どちらも歴史を“政治的道具”として利用する。「沖縄集団自決の騒動」は「中華圏の陰謀」とも絡めて考えることが必要であろう。現在の中華圏の雄は“共産主義”を標榜している“中華人民共和国”という“中国共産党一党独裁軍事国家”である。よって「中華圏の策謀」とは将に「マルキストの策謀」のことでもある。
何れにしろ沖縄の人たちがそのような「敗戦利得者」や「マルキスト」の謀略に騙されないでくれることを願うばかりである。
個人的には「今回の沖縄集団自決の騒動」を通じて多くの憤りを感じている。悲惨な歴史を背負わされた沖縄の人たちを政治的な騒動に巻き込み漁夫の利を得ようと画策する“敗戦利得者”と“マルキスト”の存在と、そして未だに“先の大戦の真の原因”を理解できないでいる善良な日本人が多くいることに。
諸悪の源泉は“人間のエゴ・驕り”であり、そして具体的にはその変異(奇形)体である“共産主義(マルキシズム)”が源流となった。そしてその具体的な実態としての組織の名称は、
である。このことが“歴史の真実”である。そしてその末裔が現代の「敗戦利得者」と「マルキスト」、そして多くの「“官僚”と呼ばれる公(おおやけ)の心を失ったエゴイスト集団」である。
“FC2ユーザサポート”よりメールが来ていた。結果“サーバー障害”であったらしい。矢張り昨日(24日)の投稿分は全て消えてしまっているようだ。せっかく“皆勤賞”でここまできたのに何か残念である。が、しかし、このままにしておこう。今からでもおそらく“24日付”で投稿はできるはずではあるが、改めて投稿はしないでおこう。どうせ大した投稿ではなかったし。とはいっても思い出したらまた投稿するかもしれない。“つれづれの音楽”関連と“FC2に対する愚痴”の投稿であったから、その内“つれづれの音楽”の投稿だけでも。気が向いたら。
それにしても何故“サーバー障害”が発生したのであろうか。そこのところが少し気になる。
…大変ご迷惑をおかけし誠に申し訳御座いません。
先日24日の13:00ごろより、blog113サーバーをご利用の
一部のユーザー様において障害が発生しておりました。
今現在は復旧しており、正常にご利用が可能ですので
ご確認頂きます様御願い致します。
尚障害が発生している間に行った操作の反映が行われていない可能性が
御座います。
その間に投稿された記事等はお手数ですが再度投稿頂きご確認下さい。…
それにしても何故“サーバー障害”が発生したのであろうか。そこのところが少し気になる。
もしかしたら“新管理画面”のバグなのかもしれない。何れにしろ原因は分からないが何か調子が悪い。今も実際はおかしな現象が現れている。
何がおかしいかというと、投稿文を打ち込んでいるとダブルといおうか重複されて表示されてしまう。したがっていちいち削除しながら打ち込んでいる。
「どういうことかというとこういうことであるどういうことかというとこういうことである。。」
上の文章は削除しないでそのままにしてみた。それ以外はこの文章も含め削除しながら書き込んでいる。
やれやれ、困ったもんである。
何がおかしいかというと、投稿文を打ち込んでいるとダブルといおうか重複されて表示されてしまう。したがっていちいち削除しながら打ち込んでいる。
「どういうことかというとこういうことであるどういうことかというとこういうことである。。」
上の文章は削除しないでそのままにしてみた。それ以外はこの文章も含め削除しながら書き込んでいる。
やれやれ、困ったもんである。
昨日(24日)、ブログが閲覧・投稿できなくなっていた。原因は何だったのだろう?何れにしろ昨日投稿したものは公開・下書き分を含めて全て消えてしまっている。
矢張り、天才なのであろう。偶然“Connie Talbot's "I Will Always Love You" (Full Version)”を“You Tube”で見つけた。“White Christmas ”もあった。またまた感動してしまった。どうやらCDをリリースしたらしい。若干6歳の女の子がよくやるものだ。日本では分からないが感銘を受けているのは私だけではないらしい。母国のイギリスでは相当な人気者のようである。歳も1つ増えて7歳になっているようだ。“You Tube”の動画もかなり数が増えている。
もともとこの投稿は12月24日分。“サーバー障害”で消失してしまった投稿である。24日には“White Christmas ”を繰り返し聴いた。本日は12月30日。とりあえず12月24日付で投稿することにする。これで今年は“皆勤賞”である。
尚、既にCDは“Amazon.com”で購入している(“Over the Rainbow”)。
Connie Talbot's "I Will Always Love You" (Full Version)
Connie Talbot I Will Always Love You ~album Over The Rainbow
Connie Talbot 'I Have A Dream' ~ 'Over The Rainbow' album
Connie Talbot--White Christmas
Connie Talbot celebrates 7th Birthday
Connie sings for ITV
関連投稿; I thought, you were ファンタスティック!
もともとこの投稿は12月24日分。“サーバー障害”で消失してしまった投稿である。24日には“White Christmas ”を繰り返し聴いた。本日は12月30日。とりあえず12月24日付で投稿することにする。これで今年は“皆勤賞”である。
尚、既にCDは“Amazon.com”で購入している(“Over the Rainbow”)。
Connie Talbot I Will Always Love You ~album Over The Rainbow
Connie Talbot 'I Have A Dream' ~ 'Over The Rainbow' album
Connie Talbot--White Christmas
Connie Talbot celebrates 7th Birthday
Connie sings for ITV
関連投稿; I thought, you were ファンタスティック!
2007年12月23日 msn産経ニュースより
2中国人と口論…警察官が線路に突き落とされ足切断2007.12.23 06:47
22日午後11時20分ごろ、東京都千代田区神田駿河台のJR御茶ノ水駅ホームで、中国籍の男2人ともみ合いになった警視庁通信指令本部の男性警部補(49)が線路に突き落とされ、進入してきてきた電車にはねられた。警部補は病院に運ばれたが、右足を切断する重傷。
警視庁神田署は殺人未遂の現行犯で、ともに中国籍の調布市調布ヶ丘、会社役員、李志(41)と、国分寺市富士本、会社員、金●(31)の2容疑者を逮捕した。
調べだと李容疑者らと警部補は、東京発豊田行きの中央線快速に乗っていたが、車中で口論となり、御茶ノ水駅で下車。ホームでつかみ合いの状態になっていたという。警部補は帰宅途中だったと見られている。神田署で口論になった原因を調べている。
●は「木へん」に「又」
嫌な事件だ。しかし、何故か頷ける。このようなことを言うと「日本人にだってこのような非道な者はいる!」「人種差別だ!」などというものが必ずいる。そのような者は“人間”というものが分かっていないのだと思う。勿論、私も“全て”の中国人とか“全て”の日本人がとは言わないし、言えない。
おそらくこの日本人の警察官は“そこまではしないであろう”という“日本人の常識”に基づいて“口論”していたのであろう。しかし“同じ人間”であっても中国人と日本人とはその育ってきた“環境”が違う。そして“文化・文明”が違う。要は“価値観”が違うということだ。価値観が違えばその“行動パターン”も異なってくる。
この違いを認めたがらない人がいる。“人間は皆同じ”だと考えている人たちが数多い。戦後民主主義教育の成せる技であろう。
いわば日本人は“猫の群れ中”に放り出された“孤独なネズミ”である。猫は自らの腹が満たされている時は何の手出しもしないが、いざ腹が減ってくると容赦なくネズミを襲う。ネズミはチョロチョロと逃げ回るだけで何れ猫の餌食になってしまう。
ネズミには申し訳ないが、それが運命なのかもしれない。そのように神様はネズミを創られた。猫の餌食になる宿命をネズミに与えた。その点からしてみても、もし神様がいるとするならばその神様は悪魔と比較してもそう変わらない存在なのであろう。なぜならばこの世には“悲劇・惨劇”が余りにも多すぎる。
何れにしろ、人間にはネズミと違って“智恵”があるとされている。だとすればチョロチョロと逃げ回るだけではなく他に手立てはいくらでもあるはずだ。時たま“レミング”に変身することはあっても“智恵”はそのような行動自体も制御できる可能性を秘めている。
その為にも“敵を知り己を知れば百戦危うからず”である。我々日本人は余りにも自らに危害を加えてくる“敵”を知らなさ過ぎる。知らないどころか知ろうともしていない。なぜならば“日本人と同じ”という“偏った平等思想”に凝り固まってしまっているからだ。
人は環境によって形作られる。決して自然に“人間”になるのではない。環境に順応した形でその思考・行動パターンは形成される。
一般的な“中国人の行動パターン”を理解していなかったこの警察官にも落ち度があるのかもしれない。しかしそれ以上に、そのことを知ろうとしてこなかった日本社会そのものに一番の原因があるのだと私は思う。
隣国の中国(中共)及び韓国・北朝鮮は紛れもない中華文明の国々である。この“中華文明”は“日本文明”とは明らかに異なる歴史的堆積がある。先ずは“日本文明”を知り、“中華文明”を学び、確りと理解し認識することが必要である。そして中国・韓国・北朝鮮と親しく付き合うためにもその“違いを認め合う”ことが肝要だ。

東アジアの中では日本人だけが“嘘”を嫌う。中華文明では嘘は“処世術”の一つとして“日常的な行動パターン”である。未だにこの事実を知ろうとしない、あるいは知らない日本人なり欧米諸国の人々がいる。
何も嘘をつくことがいけないといっているのではない。それが文化であり文明であり、そして国民性である以上、駄目だといっても仕方が無い。文化・文明は尊重しなければいけない。それが世界平和の基本である。問題は“嘘”そのものにあるのではなく、「“嘘”を放置しておくこと」にこそある。“嘘”をつくことが悪いことだと神様やお釈迦様やイエス・キリスト様は教えてくれたとしても、スターリンや毛沢東やノム・ヒョンは教えてくれない。寧ろ大いに嘘をつけ、突き通せと奨励してさえいる。
“嘘”を嫌う日本人としては承服いたしかねるところではあるが、世界平和のためには納得する以外に道は無い。世の中には“嘘で食っている人たち”がいることを理解してあげなければならない。ただし、“嘘”を放置していてはいけない。“嘘”は世の中を混乱に陥れる。
“嘘をつく”ことが文化・文明である以上、そしてそれが国の政策・方針になってしまっている以上、他国が力ずくで変えさせることは今の世の中では限りなく不可能である。後は“嘘つき国家、文化・文明”の自立的な覚醒を待たなければならない。その覚醒を待つ為にも“嘘”は“嘘”でありつづけてもらわなければならない。“嘘”を放置しておくと“事実”なり“真実”に変貌してしまう。それが“嘘”の恐いところである。であるからして、“嘘つきの相手”からいくら誹謗中傷されようが“嘘は嘘”とはっきりと主張し続けなければならない。それが世界平和の為である。
それさえも放棄して静観をするような人たちははっきり言って“卑怯者”であり“下衆野郎”である。まして、そのような下衆野郎が政治家なり官僚に君臨していたとするならばそのような国は滅びるしかあるまい。国を滅ぼさない為にはそのような“下衆野郎の政治家なり官僚、そして知識人、マスコミ人”に覚醒してもらわなければならない。先ずはこちらの“覚醒”の方が先決である。
と声を挙げる勇気を持とう!

“自称”日本の暴力団、“自称”日本の右翼構成員、“自称”日本の凶悪犯罪者。さらに“特別永住資格”のお陰で「“他称”日本人」の暴力団員も右翼構成員も凶悪犯罪者も多くいるようである。何か悪いことをしたときは“自称”も“他称”も日本人を名乗り、世の中で名声を勝ち得た時にのみ“自称”だけが“韓国人・北朝鮮人”になる特殊な国民もいるが、世界の人々は殆どがこの“自称”に騙される。殊に韓国人の場合は海外に行くと「“自称”日本人」を高らかに叫ぶものが多くいるそうである。

悲しいことではあるが、少なくとも日本における凶悪犯罪の多くがこのような“自称日本人”か“似非日本人(外国人)”によって引き起こされている。しかし、どういうわけかそのような実態を日本のマスコミは報道しない。大いに問題である。“Wiki外国人犯罪” ; “平成18年犯罪白書”

「アポロが残してきた旗や機体の一部が映っていないか」
しかし、残念なことに「解像度が足りず、痕跡は見つけられない」らしい。はたして本当だろうか?少し疑ってみたくなる。それは兎も角中国の「月探査衛星“嫦娥(じょうが)1号”」はどうなてしまったのだろうか。あれ以来これと言った報道が無い。もともと“嫦娥1号”の打ち上げ自体が“中国共産党の第17回党大会”に合わせて行われていることからして“探査”よりも“国威発揚”の方が主目的だとは思うけれどもこのままでは余りにも見栄っ張りの“中共”が可愛そうだ。何なら親中派の加藤紘一氏や河野洋平氏が音頭を取って、国民にはないしょで“かぐや”の映像やデーターを少し分けてあげてはどうであろうか。あるいは“かぐや”そのものも得意の“ODA”で供与してあげたら。さぞかし“中共”は喜ぶことであろう。
何れにしろ“アポロ17号”が35年前とは恐れ入る。月日の経つのは早い。私はライブで月面着陸を観ている。勿論、テレビでではあるが。あの時のことを考えれば35年後には少なくとも月には人が住むようになり、“修学旅行”さへも“月”か“宇宙ステーション”には行けるものと考えていた。
人類初の“宇宙ステーション”はやっと完成に近づいているようであるが“修学旅行”には未だ先が長そうである。
今週号(12月27日号)の週刊新潮によれば“欧州議会の慰安婦決議”の仕掛け人は“アムネスティ・インターナショナル”らしい。
アムネスティ・インターナショナルの日本事務局が言うには「我々は、慰安婦問題で日本政府に謝罪と補償を求めていますが、充分とはいえません。そこで、欧州議会のような国際機関や各国政府の議会に非難決議を採択するよう働きかけているというわけです」ということであるらしいが、日本の外務省は「政府としては、これまでも現地在外公館等を通じ、各国関係者に対し、我が国の立場につき説明してきています。今後とも我が国の立場につき各国関係者に対して理解を求めていく考えです」と答えているらしい。
少しはその辺の事情が分かっているものならこのような政府・外務省の対応が数々の非難決議の温床になっていることが分かるであろう。なぜならば我が国の立場は“河野談話”であるのであるから。
全く持ってして情けない限りである。これが我が国を代表する国家官僚の姿である。とはいっても、官僚に文句を言ったところで仕方があるまい。要は政治の問題である。
先ずは“河野談話の破棄”が先決だ。あのような史実に基づかないいいかげんな“政治的談話”そのものが問題である。
河野談話を詳しく読めば分かるように非常に曖昧な日本社会にだけ通用するような官僚的な文章である。“軍の直接的な関与”を認めていながらその内容については具体的な言及を避け、間接的に日本軍の慰安婦制度そのものというよりも世界に敷衍する公娼制度そのものに遺憾の念を捧げている。日本人ならばその心根も分からないではないが、世界には日本人以外の人間が沢山いる。
おそらく河野洋平氏を含む“河野談話”に賛同なり共感を寄せる政治家・官僚は、“戦後レジーム”の申し子であり、鼻持ちならぬエリート(特権)意識の持ち主なのであろう。国際政治の世界ではどのような形にせよ“謝罪”をすることは自ら“罪”を認めることになり、罪を認めればそれは当然のこととして“賠償”の対象になる。このような“世界常識”さえも分からない政治家・官僚・知識人が余りにも日本社会には多すぎる。
その点、アメリカの政治家は立派である。事の良し悪しは別にしても未だに日本への原爆投下については公に謝罪したことは一度もない。これが外交であり国際政治である。
おそらく“河野談話”に恭順の意思を示されるような日本のお偉方といわれる方々は学生時代に“マル経(マルクス経済学)”を勉強し、“戦後民主主義教育下の優等生”として“日本悪玉史観”を原点としてしかものごとを考えられなくなってしまった“隠れ共産主義者”の方々なのであろう。あるいは“唯物史観論者”と言い換えても良いかもしれないが、一言で言えば“学業(だけ)秀才の変人”である。そして今の日本社会はこのような“学業秀才の変人=隠れ共産主義者=敗戦利得者”によって“国家意識の無い不思議な国”へと変貌させられてしまっている。
まさにこの記事の執筆者が言うように「そのうち冗談ではなく、国連でも非難決議が採択されてしまう」かもしれない。何せ国連とは“United Nations(ユナイテッド・゙ネイションズ)”であり、日本に原爆を投下したのもいわゆる“ユナイテッド・゙ネイションズ”である。少なくとも日本を占領したのは間違いなく“ユナイテッド・゙ネイションズ”である。
同じ“United Nations”を『「連合国」と「国連」』等と使い分けて考えているようでは決してまともな国にはなれまい。日本は“ユナイテッド・゙ネイションズ”にとっては今も変わらず“敵国”なのであり。そして“ユナイテッド・゙ネイションズ”の拒否権を持つ常任理事国は全て“核保有国”なのである。
このような現実を確りと踏まえた上で、たとえ法的拘束力が無い“談話”だとしても破棄してもらいたいものだ。
河野洋平氏は米国、カナダ、オランダ、そして欧州議会と自らの発した談話により日本、そして多くの日本人が非難されていることに対して自らの重大なる責任を感じてさぞかし贖罪感に苛まれていることであろう。自らの政治的無能さを心から嘆いておられることであろう。しかし、寡聞にして私は知らない。そのような反省の言葉を当の河野氏が発せられたことを。
本当に不思議な国である。これでは国民に塗炭の苦しみを与えた戦中の官僚・政治家と何等変わりはあるまい。
河野洋平氏よ
自ら進んで腹を切れ!(辞職しろ!)
そこから全ては始まる。
“悪霊の“河野談話””の続きを読む>>
「米下院での非難決議は、中国系の反日団体が動いて、マイク・ホンダ議員が本会議に持ち込みましたが、今回、欧州議会に働きかけたのは人権団体のアムネスティ・インターナショナルです」
アムネスティ・インターナショナルの日本事務局が言うには「我々は、慰安婦問題で日本政府に謝罪と補償を求めていますが、充分とはいえません。そこで、欧州議会のような国際機関や各国政府の議会に非難決議を採択するよう働きかけているというわけです」ということであるらしいが、日本の外務省は「政府としては、これまでも現地在外公館等を通じ、各国関係者に対し、我が国の立場につき説明してきています。今後とも我が国の立場につき各国関係者に対して理解を求めていく考えです」と答えているらしい。
少しはその辺の事情が分かっているものならこのような政府・外務省の対応が数々の非難決議の温床になっていることが分かるであろう。なぜならば我が国の立場は“河野談話”であるのであるから。
全く持ってして情けない限りである。これが我が国を代表する国家官僚の姿である。とはいっても、官僚に文句を言ったところで仕方があるまい。要は政治の問題である。
先ずは“河野談話の破棄”が先決だ。あのような史実に基づかないいいかげんな“政治的談話”そのものが問題である。
河野談話を詳しく読めば分かるように非常に曖昧な日本社会にだけ通用するような官僚的な文章である。“軍の直接的な関与”を認めていながらその内容については具体的な言及を避け、間接的に日本軍の慰安婦制度そのものというよりも世界に敷衍する公娼制度そのものに遺憾の念を捧げている。日本人ならばその心根も分からないではないが、世界には日本人以外の人間が沢山いる。
おそらく河野洋平氏を含む“河野談話”に賛同なり共感を寄せる政治家・官僚は、“戦後レジーム”の申し子であり、鼻持ちならぬエリート(特権)意識の持ち主なのであろう。国際政治の世界ではどのような形にせよ“謝罪”をすることは自ら“罪”を認めることになり、罪を認めればそれは当然のこととして“賠償”の対象になる。このような“世界常識”さえも分からない政治家・官僚・知識人が余りにも日本社会には多すぎる。
その点、アメリカの政治家は立派である。事の良し悪しは別にしても未だに日本への原爆投下については公に謝罪したことは一度もない。これが外交であり国際政治である。
おそらく“河野談話”に恭順の意思を示されるような日本のお偉方といわれる方々は学生時代に“マル経(マルクス経済学)”を勉強し、“戦後民主主義教育下の優等生”として“日本悪玉史観”を原点としてしかものごとを考えられなくなってしまった“隠れ共産主義者”の方々なのであろう。あるいは“唯物史観論者”と言い換えても良いかもしれないが、一言で言えば“学業(だけ)秀才の変人”である。そして今の日本社会はこのような“学業秀才の変人=隠れ共産主義者=敗戦利得者”によって“国家意識の無い不思議な国”へと変貌させられてしまっている。
まさにこの記事の執筆者が言うように「そのうち冗談ではなく、国連でも非難決議が採択されてしまう」かもしれない。何せ国連とは“United Nations(ユナイテッド・゙ネイションズ)”であり、日本に原爆を投下したのもいわゆる“ユナイテッド・゙ネイションズ”である。少なくとも日本を占領したのは間違いなく“ユナイテッド・゙ネイションズ”である。
同じ“United Nations”を『「連合国」と「国連」』等と使い分けて考えているようでは決してまともな国にはなれまい。日本は“ユナイテッド・゙ネイションズ”にとっては今も変わらず“敵国”なのであり。そして“ユナイテッド・゙ネイションズ”の拒否権を持つ常任理事国は全て“核保有国”なのである。
このような現実を確りと踏まえた上で、たとえ法的拘束力が無い“談話”だとしても破棄してもらいたいものだ。
河野洋平氏は米国、カナダ、オランダ、そして欧州議会と自らの発した談話により日本、そして多くの日本人が非難されていることに対して自らの重大なる責任を感じてさぞかし贖罪感に苛まれていることであろう。自らの政治的無能さを心から嘆いておられることであろう。しかし、寡聞にして私は知らない。そのような反省の言葉を当の河野氏が発せられたことを。
本当に不思議な国である。これでは国民に塗炭の苦しみを与えた戦中の官僚・政治家と何等変わりはあるまい。
自ら進んで腹を切れ!(辞職しろ!)
そこから全ては始まる。
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新保氏によれば“よく知られた言葉”であるらしいが、正直、私はよく知らなかった。夏目漱石の言葉だとは露ほども知らなかった。お恥ずかしい限りである。しかし、何となくどこかで聞いた言葉ではある。『西洋の開化は「内発的」であるのに対して、黒船到来以来の日本の開化は西洋の圧迫によって強いられた「外発的」なものである。結果、皮相上滑りの開化であり、「波だを呑んで上滑りに滑っていかなければならない」と言った。』らしい。勿論、夏目漱石氏がである。流石言うことが凄い。私が敬愛してやまない小説家・夏目漱石氏だけのことはある。

要は内発的とか外発的とか言う余り一般的に使われていない言葉を使うよりも、“主体的”とか“自立的”とかいう言葉を使った方が分かりやすい。だとすれば何も夏目漱石が言ったばかりではなく、古(いにしえ)の先人たちが繰り返し述べていたことに過ぎないのではないだろうか。漱石氏は芸術家である。余りおだてても漱石氏自信が可愛そうである。何せ“非人情”という雲上の世界の人であるからして夏目漱石氏は。
それは兎も角、『特に敗戦から7年間の長きにわたった「占領下」とは、決定的に「外発的」な時代であった。その間に生じた習性は、今日までますます根深く蔓延し、「内発性」は加速度的に希薄になっている。』とか『政治・外交の面でも、「戦後レジームからの脱却」の意思とは、わずかにのこっていた「内発性」の発現であったが、それも潰えて米国、あるいは国連といった「外」のものに依存する習性の中に、再び眠りこもうとしている。』という新保氏の見識や『…しかれども半鐘の声で急に飛び起きたるなり。その覚めたるは本当の覚めたるにあらず。』等といった漱石氏の言葉については共感するところも数多い。そして新保氏はこれらの観点から『…「戦後レジーム」とはそのような惰眠のことである。』と言い切る。
紙面の関係もあるのであろうが、私にはこのような新保氏の考え方は少し短絡的過ぎるのではないかと思えてしまう。その理由は何れ“つぶやく”ことにして、その“結論”には大いに共鳴する。
『今日ほど「亡びるね」という声が真に迫って聞こえてくる時代はない。今や、「日本は真に目が醒めねば」ならない秋(とき)である。』