譬えれば今の半導体みたいなもので、実際、最初のコンピューター「ENIAC」はこの多極真空管一万八千本を使って作られた。
また、その後のいきさつについても次のように記されている。
安藤少年の発明はその後のラジオやテレビ、無線通信などを画期的に飛躍させるものだったが、ただその真空管を使うには安藤少年に特許料をいちいち払わねばならなかった。
パソコンの起動ソフト特許を握ったビル・ゲイツのもとに全メーカーが詣でる構造と同じで、その結果ゲイツは億万長者になれてもコンピューター産業は著しい制約を強いられたのと同じ状況にもなった。
それをこの時代、松下幸之助は解決した。
彼は少年を訪ね、特許は日本の産業の発展を阻害しかねない、私が特許を買い取って世間に解放したいのだが、と伝えた。
安藤も日本人だった。納得して特許を手放し、日本の電子産業の裾野は広がった。日本にSONYやパナソニックが誕生したのは偶然ではなかった。
“八木アンテナ”の逸話については色々な著作で知ってはいたが、改めてその“深刻さ”に驚かされてしまった。矢張り、今も「官僚体質」は何も変わっていない。
しかし、…「当時の日本は軍部を含めて角界が官僚化していた」。無能だったという意味だ。
だから電探も「こっちから電波を発射したら敵に居所を教えるようなものだ」とその開発も研究も潰してしまった。
昭和十六年、教授はアンテナの特許更新を申請したが、特許局と商工省の官僚は「重要な発明特許とは認めがたい」と逆に特許の取り消しを通告してきた。
同じ年の十二月八日、日本は真珠湾攻撃と同時にマレー半島に上陸、ジットラ要塞線を一日で破って、翌年二月半ばにはシンガポールを陥落させた。
ここで日本は連合軍のレーダー二基を鹵獲し、その捜査員が綴った仕様書を押収した。いわゆるニューマン文書だ。
解読は、しかしすぐ行き詰った。文書に頻繁に出てくる「YAGI」の意味が分からない。
で、捕虜収容所で文章を作ったニューマンを探し出し、意味を尋ねた。
彼は怪訝そうな顔をして答えた。「YAGIとは貴方の国の学者の名だ。彼が発明した指向性アンテナのおかげでレーダーができたようなものだ」
この証言から三か月後にミッドウェーの海戦が起きる。米軍は八木アンテナによって日本の連合艦隊をほぼ壊滅に追い込めた。
日本の敗北は官僚の無能ゆえと言っていい。
このコラムのタイトルは「官僚とは無能のこと」、である。続けて著者はその“主意”を記し、文章を終えている。
司馬遼太郎は気づかなかったが、日本は日露戦争後もたゆまず坂を上り続けた。ただ馬鹿な官僚がそれを悉く潰しただけだなのだ。
政府の経済財政諮問会議が、旧ろう「有為な人材」を理由にしてきた「天下り」が実は有為どころか有害だったことが分かった、とその全廃を提案した。
実現すれば美しい日本への最高のお年玉になる。
以上、“週刊新潮”2007年1月4・11日号に掲載された、「異見自在」変じて「変見自在」の高山氏の“名物コラム”の一部だそうだ。私は“週刊誌”は殆ど読まない。しかし「変見自在」は今後も読み続けてみたい。
「勉強忍耐」乃木大将に学ぶより
「子供たちは難しい言葉でもすぐに覚えます。ただ『がまんしなさい』と言うより、偉人の言葉で伝えるとよくわかってくれます」
「きょうは、卑怯(ひきょう)者には負けなかった西郷さんの話をしたんだよ。君たちは、卑怯者にはならないでください。分かりましたか」
「はい!」
これが教育というもんだ。日本には“偉人”が沢山いる。それを「過去の日本は悪かった」として学校(家庭)教育の現場では殆ど教えられることはない。少なくとも戦後生まれの私には教えられた記憶がない。
「伏(ふ)してぞ止(や)まん-ぼく、宮本警部です-」。
現代社会においても“偉人”は数多くいる。“スポーツ選手”や“アイドル”ばかりが“偉人”ではない。子供たちにとってもっと大切な“偉人”はいくらでもいる筈だ。
「いろは七訓」=別表。山口氏が27年前、ナイジェリアに単身赴任中、6歳を筆頭とする3人の娘にあてて作った家訓だ。
「半年に1回帰国するだけで、育児は妻に任せきり。父親らしいことは、家訓を作っただけ」
山口氏はこう苦笑するが、妻はこの家訓を神棚の下に張った。娘たちは毎朝1項目を唱えた。巣立った今でも、「いろは七訓」のことを話題にするという。
山口氏は、寺子屋活動について「かつて家庭教育で行われていたことをカバーしているつもり」と話す。自身は1948年生まれの「団塊の世代」だが、「小学生のころはどの家にも『少年少女日本史』のような本があり、テレビがない時代の娯楽として読みふけった。挿絵まで覚えているのが同じ世代の共通体験」という。
当時、学校では既に戦前の価値観を否定する教育が始まっていた。
「われわれの世代が恵まれていたのは、周りに戦前を生きた人がたくさんいて、戦後教育を補ってくれたこと。現代はそうした補完が、いよいよなくなってしまったのではないか」
寺子屋モデルが補完しようとしているものは、つい最近まで日本の家庭に息づいていた。そのことに気づいてほしい、と山口氏は訴える。
山口秀範氏は否定されると思うが、山口氏ご自身ももしかしたら“偉人”の一人かもしれない。少なくとも、今の“日本社会”においては。
…ちなみに二十世紀の戦争の九割は中国、ソ連など社会主義、全体主義国家がからみ、民主国家では米、蘭などごく少数。
たまたまだが、日本は先の戦争でこれらわるい国々すべてを相手に戦った。
読売は先日、それを「侵略戦争だった」と北京の言うままに書いていた。
いつまでたっても何も見えない新聞だ。
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“読売”でこの程度だから“朝日”に対してはさらに辛らつだ。何れまた、機会があれば投稿することにしよう。“ものの見方”は人それぞれだ。何が“真実”かは正直わからない。このわからないことこそ“唯一の真実”であろう。にも拘らず“わかったような顔をしている吾人たち”には是非、この本をお薦めする。きっと世の中が開けて見えてくることであろう。
但し、そのことが“既得権益”の“為”になるかは分からない。否、寧ろ“弊害”になってしまうであろう。したがって“日本悪玉史観”の持ち主の“コチコチ頭”の“こんこんちき”な方々は読まれない方が得策かもしれない。まぁ、そのような方々は読むことも無いであろうし、例え読んだとしても理解することは出来ないであろう。そもそも理解できるような“頭・心・精神”の持ち主であれば“日本悪玉史観”等を信奉する筈がない。いやはや困ったもんだ。

この頭上に開けた空が、「あらゆる色合いと銘柄のカクテル」でおおわれている日本社会に欠けている。
日本のメーカーの携帯は、余計な機能がありすぎて、かえって世界の中で市場を失っているという。余計なものがない、それも「清潔」の一要素である。
日本は本来「清潔」を重んじる国ではないか。

今日の日本の教育、年金不正、偽装の問題をはじめとする、日本社会、日本人の精神の根本における腐敗の進行を食い止めるには、日本人が持っている「清潔」の観念を蘇らすことがまず必要であろう。「不潔な」現状に決して屈しない、雄々しい日本人は心の中でいつも唱えているべきである、「もと是神州清潔の民」と。
確かに「正論」であり、その主意は理解するが、“唱える”のは嫌である。是非、“唱える”ことなく済むように“身につけたい”ものである。
44回目の「日韓編集セミナー会議」が開かれたたそうである。日韓の論説委員は頑張っている。日本側は多勢に無勢であったらしいが。ただ、日本側から、かの「朝(ちょう)日(にち)新聞」の“論説委員”は参加したのであろうか。少し気になる。【11月14日付産経新聞(Net View)より】


日本の“論説委員”は頑張っている。しかし、“朝日新聞の論説委員”は、そして“毎日新聞”は…???