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あすなろおじさん

Author:あすなろおじさん

「近・現代史」に興味があり、日々「美しい国・日本」を夢見ているちょっと(?)歳をとったちょっと太めの“あすなろおじさん”です。※※※※※※※※※
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自縄自縛?
「抗日戦争勝利70周年組織委員会」さんとやら、

2014.12.1 06:12更新
在米の華僑系住民、抗日戦争勝利委員会を立ち上げ 戦後70年で 反日運動の活発化は必至 
(1/2ページ) .

 【ロサンゼルス=中村将、北京=矢板明夫】来年の戦後70年に向けて、米カリフォルニア州などの華僑系住民らが「抗日戦争勝利70周年組織委員会」を立ち上げたことが分かった。委員会には米連邦議員や米政界にパイプを持つ有力者も参加しており、米国における反日活動は一層強まりそうだ

 関係者や地元中国系メディアによると、「今後、委員会は全米各地で、日本が戦時中に中国や東アジアの国々を侵略して人々を冒涜(ぼうとく)し、各国の社会や経済に重大な損害を与えたことを振り返り、次世代に語り継ぐイベントを展開していく」という。

 委員会の議長は、サンフランシスコの中華街に中国以外で初めて対日抗戦を顕彰するための「海外抗日記念館」の設置を表明している女性実業家、フローレンス・ファン(中国名・方李邦琴)氏。当初の開館予定は来年9月だったが、8月15日に前倒しして進めている。

 名誉顧問には、慰安婦問題での日本非難決議を主導し、先の米中間選挙で8選を果たしたカリフォルニア州下院17区選出のマイク・ホンダ議員が就任した。反日的な言動で知られ、来年は米議会を舞台に反日工作が活発化する恐れもある。


日本がアメリカに宣戦布告したのは日本時間で1941年12月8日なのですが…。

2014.12.1 06:12更新
在米の華僑系住民、抗日戦争勝利委員会を立ち上げ 戦後70年で 反日運動の活発化は必至 
(2/2ページ) .

 また、名誉議長にはアンナ・チェン・シェンノート(中国名・陳香梅)氏が就いた。1925年に北京で生まれ、通信社の記者だった22歳のとき、米空軍中将、クレア・リー・シェンノート氏(故人)と結婚。その後、渡米し多くの米国要人と交流した。米政府の対中政策顧問に就き、米中の政治交流の橋渡し役を務めた。レーガン大統領の特使として訪中し、最高実力者、●(=登におおざと)小平氏と会談したこともある。

 米政府にパイプのあるアンナ氏を担ぎ出すことで、米政権中枢などにも日本の戦争責任を訴える狙いがありそうだ。アンナ氏は高齢で、中国系メディアによると、10月に首都ワシントンで開かれた「国家記憶映像展」に出席したほかは、近年は動静がほとんど伝えられていなかった。

 夫のクレア氏は37年に日中戦争に突入した中華民国の国民党軍の顧問として雇い入れられ、米退役軍人を集めて義勇軍の戦闘機隊「フライングタイガース」を結成し、日本軍の航空部隊と戦ったことから「抗日英雄」とされている。


「フライングタイガース」?

それって、

タブーじゃないの?

米国人が、

「日本軍の航空部隊と戦った」のは何時から?

確か、

“真珠湾の前”だと記憶しているのだけれども…。

大東亜戦争 | 【2014-12-01(Mon) 17:09:32】
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淵田美津雄中佐
誰が落札したのであろう…。

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旧日本軍の真珠湾攻撃で部隊を指揮した淵田美津雄中佐が攻撃後に作製し、昭和天皇への説明に用いたとされる戦果図(競売大手クリスティーズのホームページより)

真珠湾戦果図に4千万円超 米競売、天皇報告時に使用
2013.12.7 13:08 [歴史問題・昭和史]

 旧日本軍の真珠湾攻撃から7日(ハワイ時間)で72年となるのを前に、部隊を指揮した淵田美津雄中佐が攻撃後に作製した戦果説明図が6日、ニューヨークで競売に掛けられ、42万5000ドル(約4370万円)で落札された。AP通信が伝えた。

 淵田中佐は「トラトラトラ」(われ奇襲に成功せり)の電文を打ったことで知られる。主催した競売大手クリスティーズは広報資料で、図を指さしながら昭和天皇に説明したと振り返る淵田中佐の自伝を引用した。

 戦果図は縦約80センチ、横約60センチの紙に「軍極秘」と赤字で記され、攻撃を受けた米艦船の名前や位置、被弾させた爆弾と魚雷の数などが書き込まれている。落札者は明らかになっていない。(共同)




“開戦(宣戦)の詔書”

余はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。…中華民国政府は、以前より帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を攪乱(かくらん)し、遂(つい)に帝国に武器をとらせる事態(慮溝橋事件)にいたり、現在まで四年が過ぎた。さいわいに、国民政府は、汪清衛・南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するに至ったが、重慶に残存する蒋介石政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟であるはずの南京政府と、いまだに相互の境をはさんでせめぎあう姿勢を改めない。

 米英両国は、蒋介石政権を支援し、東アジアの戦禍と混乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋を征服する非道なる野望をたくましくしている。あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには禁輸措置を意図的におこなって、帝国の生存に重大なる脅威を加えている

 余は、政府をして、そのような事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間、隠忍(いんにん)したのだが、米英は、寸毫も譲り合いの精神を持たず、むやみに事態の解決を遅らせ先延ばしにし、その間にもますます、英米による経済上・軍事上の脅威は増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている

 このような事態が、そのまま推移したならば、東アジアの安定に関して、帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、文字通り危機に瀕することになることここに至っては、帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、英米による一切の障礙(しょうがい)を破砕する以外に道はない
 皇祖皇宗の神霊は、天にましまし、余は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに英米による禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである
(御名御璽)

“米国及英国ニ対スル宣戦ノ件・御署名原本・昭和十六年・詔書一二月八日”



“マッカーサー証言”
昭和26年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会

Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです



“第33代米国大統領:H・S・トルーマンの言葉”

『 …やがて真珠湾が話題に出た。いろいろと当時の模様を話し合っていたとき、トルーマン前大統領は笑いながら、
「キャプテン、真珠湾はね、ボス・ギュルチィ(両者有罪だよ」
 と言った。私は、
「そりゃ神の前にはボス・ギルュチィでしょうけれど…」
 と言い及ぼうとしたら、トルーマンは遮ぎって、
いいや、神の前ばかりでなく、人間の前にも、いまに史実としてボス・ギルュチィ(both guilty)が明らかになるだろう と言った。…』p365


真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝
(2007/11/30)
淵田 美津雄、中田 整一 他

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おっと、

文庫本も出版されていた。

真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝 (講談社文庫)真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝 (講談社文庫)
(2010/11/12)
淵田 美津雄

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大東亜戦争 | 【2013-12-08(Sun) 08:56:07】
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現代版、シナ事変の真相
以下の「中国人の男2人が飲食店で店側とトラブル」の記事は、

蒋介石が率いる国民党毛沢東の共産党張作霖等の地方軍閥がシナ大陸で紛争を起こし、お人よしの日本人が汪兆銘さんと一緒に仲裁に入ったところ、共産党の姦計に嵌り、諸悪の根源の“コミンテルン”と甘言と我欲で篭絡されてしまっていた“連合国”に日本・日本人は袋叩きに遭い、とても軽傷ではすまなかった・・・”

という、隠蔽されてしまっている“歴史的事実”を髣髴させる。

尚、“連合国”とは英語で“United Nations”。今の“国際連合”のこと。

msn産経ニュース
邦人2人、中国人から暴行受け顔に軽傷 飲食店との仲裁に入る 江蘇省
2012.11.2 07:26 [中国]

 【上海=河崎真澄】中国江蘇省太倉市の飲食店で10月26日夜、2人の日本人男性が、店内に居合わせた中国人の男2人から暴行を受けて、顔面に軽傷を負ったことが1日、分かった。

 上海の日本総領事館によると、中国人の男2人が飲食店で店側とトラブルになり、日本人客2人が仲裁に入ったところ、男2人が殴りかかってきた。店側の通報でかけつけた警官が、加害者の男2人の身柄を拘束して取り調べたという

 暴行があったのは上海市に隣接する工業地帯。日本企業の工場などが集まっている。

 暴行被害にあった日本人のうち1人は駐在員で1人はその友人。2人とも病院で手当てを受けた。日本人を標的にした暴行事件の可能性もあるが、詳細は明らかにされていない。

 5万6千人を超える中国最大の在留邦人を抱える上海と周辺地域では、日本政府による9月の尖閣諸島の国有化決定以降に、路上で突然、ラーメンを頭からかけられるなど日本人が中国人に暴行を受けるケースが多発。先月も上海市内で日本人らが刃物で切りつけられる事件が起きている



大東亜戦争 | 【2012-11-03(Sat) 13:50:15】
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枢軸国
〔※下書きシリーズ〕

この〔※下書きシリーズ〕の前に、〔過去の「つぶやき未投稿」シリーズ〕というものがあった。

以下はそのシリーズの“生き残りの下書き”。

やれやれ…

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【過去の「つぶやき未投稿」シリーズ31】

 “枢軸国”とは言わずとも知れた先の大戦(第二次世界大戦)で“連合国”と戦った国である。

 日本(大日本帝国)とドイツとイタリアについては悪名高き“三国同盟”のお陰で日本でも知っている人は数多いが、“枢軸国”はこの三国だけではなかった。改めて調べて見て驚いた。この国が“枢軸国”、即ち我々の“見方”であったのかと。何れにしろ先の大戦を“ファシズムと民主主義の戦い”等とは単純に考えることは出来ない。

 尚、参考までに1945年9月2日に戦艦ミズーリー上で署名された“降伏文章”には連合国軍最高司令官 ダグラス・マッカーサーを入れて「10」の署名がある。 

マッカーサーの署名を除けば後は全て国家、そしてその代表者の署名である。はたして何人の日本人がこの「9カ国」全てを答えられるのであろうか。

◎連合国軍最高司令官 - ダグラス・マッカーサー
①アメリカ合衆国 - チェスター・ニミッツ
②中華民国 - 徐永昌
③連合王国(イギリス) - ブルース・フレーザ
④ソヴィエト社会主義共和国連邦 - クズマ・エヌ・ディレヴィヤンコ
⑤オーストラリア連邦 - ティー・ユー・ブレーミー
⑥カナダ - エル・コスグレーブ
⑦フランス国 - ジァック・ル・クレルク
⑧オランダ国 - シェルフ・ヘルフリッヒ
⑨ニュージーランド - エス・エム・イシット


以下は“一時的”ではあれ、枢軸国であった国々”

1.大日本帝国・2.ドイツ国・3.イタリア王国・4.ハンガリー王国・5.ルーマニア王国・6.独立スロバキア国・7.ブルガリア王国・8.クロアチア独立国・9.タイ王国・10.フィンランド共和国・11.満洲帝国・12.蒙古聯合自治政府・13.中華民国南京国民政府・14.ビルマ国・15.フィリピン第二共和国・16.自由インド仮政府・17.ベトナム帝国・18.カンボジア王国・19.ラオス王国・20.ギリシャ国・21.ピンドス公国・22.マケドニア公国・23.イタリア社会共和国・24.セルビア救国政府・25.フランス国・26.ロシア諸民族解放委員会


“戦後”は除き、連合国であった(になった)国々

〔主要5ヶ国〕
アメリカ合衆国(フィリピン)
イギリス(インド)
中華民国
ソヴィエト社会主義共和国連邦(白ロシア、ウクライナ)
フランス(レバノン)
〔※カッコ内は第二次世界大戦時には、植民地もしくはソ連邦内の国/主要5ヶ国またはその「継承国」とされた国(中華民国→中華人民共和国、ソビエト連邦→ロシア連邦)は、そのまま国際連合の常任理事国となっている〕


[ ヨーロッパ〕
オランダ 、ベルギー 、ルクセンブルグ、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ギリシャ 、デンマーク 、ノルウェー、ポーランド

[ 英連邦〕
オーストラリア、ニュージーランド、エジプト、南アフリカ連邦、カナダ、ドミニカ国

[南北アメリカ〕
メキシコ、キューバ、グアテマラ 、ハイチ、ホンジュラス、サルバドル、ニカラグア、コスタリカ 、パナマ 、コロンビア、ベネズエラ 、エクアドル 、ペルー、ボリビア、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチン、チリ

[その他〕
イラン、イラク、シリア 、トルコ、サウジアラビア、エチオピア、リベリア

“Wiki”より
20090613renngoukoku01
※第二次世界大戦の勢力図。濃い緑色が真珠湾攻撃以前からの連合国参加国。薄い緑色は真珠湾攻撃以後の連合国参加国。


大東亜戦争 | 【2009-06-13(Sat) 10:59:49】
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共同謀議
〔※下書きシリーズ〕

 タイトルが“共同謀議”だからといってもそれは日本がかの“東京裁判(極東国際軍事裁判 The International Military Tribunal for the Far East)”で訴追された“共同謀議”のことではない。

 もし仮に“共同謀議”が罪刑法定主義に反して明らかなる“事後法”でありながらも“罪”だとするならば、“連合国側の行為”こそがその“罪”たる“共同謀議”に等しい。

 巷間知れ渡っているカサブランカ会談カイロ会談テヘラン会談ヤルタ会談ポツダム会談の“歴史的会談”を“共同謀議”といわずに何という。

 “共同謀議”については“ニュルンベルク裁判”における国際軍事裁判所条例第6条“a項-平和に対する罪 ”に於いて以下のように記されている。

「すなわち、侵略戦争あるいは国際条約、協定、誓約に違反する戦争の計画、準備、開始、あるいは遂行、またこれらの各行為のいずれかの達成を目的とする共通の計画あるいは共同謀議への関与。」

 また、“東京裁判”においては極東国際軍事裁判所条例第5条 (イ)平和ニ対スル罪 に於いて以下のような記述がある。

「即チ,宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争,若ハ国際法,条約,協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画,準備,開始,又ハ遂行,若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。」

 少なくとも、「ソ連参戦は連合国側の“共同謀議”によって決定」された。

 しかし、“共同謀議”で裁かれたのは連合国側ではなく日本であった。

 このことを知らない日本人が多いような気がする。日本は“共同謀議”そして“平和に対する罪”という罪刑法定主義に反する“事後法”に基づいて「“戦勝国”が取り仕切る“軍事裁判”」で処断されたのだということを。

 一ついえることは、もし“共同謀議”がされていたら日本は負けることはなかったのではないかということだ。

 私の知る限り当時の日本では“共同謀議”などは“高嶺の花”であり、いくら“大本営”が設置されていたとはいえ“陸軍”と“海軍”そして“政府”はてんでんばらばらの状態で到底戦争に勝てる筈はない、という認識である。

 日本の“A項戦犯(“A級”ではない)”の方々は“共同謀議”で裁かれたが、是非とも連合国側を見習って、せめて“身内の間”だけでも“共同謀議”を綿密にしていただきたかった。

 そうすれば、少しは終戦(敗戦)も早まったことであろう。

 残念である。

大東亜戦争 | 【2009-06-10(Wed) 09:46:13】
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先達の皆様への「言葉の勲章」
〔※下書きシリーズ〕

知っている人は知っている、知らない人は、勿論知らない。

知りたくない人は見てみぬ振り。

知ってはいるけれども、自らの主義主張に合わないと考えている人たちは、黙殺しているか、難癖をつけて否定している。

そんな性質を持たせられてしまった以下の言葉の一つ一つが、私には心に響く。

H・G・ウェルズ(イギリス、歴史学者)
 この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。

アーノルド・J・トインビー(イギリス、歴史学者)
 第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。(1965年10月28日、英紙「オブザーバー」)

ククリッド・プラモード(タイ国の元首相)
 日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話が出来るのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。(現地新聞「サイヤム・ラット紙」、題名「12月8日」、1955年(S30年)6月)

バ・モウ (ビルマ元首相 独立宣言より)
 約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。英国はさらにその伝統的陰謀賄賂及び想像し得るあらゆる詐欺及び術策の武器をしようせり。・・・ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従い総ての国民的実質、莫大なる物資的資源、機会、文化、言語、さらに遂にはその生活様式までも失い・・・愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。・・ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。・・・ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり・・・」(一問に百答 日下公人 PHP研究所)
 
ダグラス・マッカーサー(アメリカ、日本占領連合軍最高司令官・元帥)
 日本の潜在労働者は、量においても質においても、私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。しかし、彼らは労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。日本には蚕のほかに取りたてていうべきものは何もないのだ。日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、そのほとんどが、安全保障のためであった。(1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言)

ロスロップ・スタッタード(アメリカ、歴史学者)
 すでに四百年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。(中略)1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。白人はその時、威名と実力の頂上に達したのである。その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。(長瀬鳳輔訳『有色人種の勃興』政教社、147,151頁)

ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士)
 日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。(中略)  インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。

ラグ・クリシュナン(インド、大統領)
 インドは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈もした。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。(昭和44年「日本経済新聞」)

アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)
 日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略) (日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。(「魂を失った日本」未央社、57~65ページ)

朴 鉄柱(韓国 平成2年1月逝去・68歳 、韓日文化研究所 昭和42年10月)
 大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝ったか敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万の戦死者はたしかに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇の対象となるのである。
 
ニミッツ元帥(アメリカ 太平洋艦隊司令長官)
 この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。故郷に帰ったら伝えてくれよ。この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!

スリム中将(イギリス第十四軍司令官)
 たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。(「敗北から勝利へ」)
 かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。(同書)

蒋介石
 ラモウ・騰越を死守しある日本軍人精神は、東洋民族の誇りたるを学び、範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む

ベルナール・ミロー(フランス ジャーナリスト)
 これら日本の英雄達は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。(『神風』)

参考;“世界から見た大東亜戦争” 、他



“先達の皆様への「言葉の勲章」”の続きを読む>>
大東亜戦争 | 【2009-06-05(Fri) 00:17:04】
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あばかれた「神話」の正体
今、読み進めている本。

あばかれた「神話」の正体あばかれた「神話」の正体
(2009/04/24)
鴨野 守

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『…沖縄戦をして、「捨石」作戦だと呼ぶ一部学者がいるが、それは一方的な見方というものだろう。それが証拠に、戦艦「大和」出撃目的も、鹿児島・知覧基地から飛び立った数多くの特攻隊の出撃も沖縄戦の応援のためであった。…(28頁)』

何の著作であったかは忘れてしまったが、当時の沖縄戦を共に戦い、戦後生き残った女性の話を読んだことがある。

そこには沖縄特攻作戦で散って逝った多くの若者たちに対しての感謝の気持ちが綴られていた。

大まかな内容は以下のようであったと記憶している。

『米軍の艦砲射撃が激しく、一歩も(非難)壕からでることは出来なかった。しかし、一瞬艦砲射撃が止むときがあった。特攻機が飛来した時である。米軍の狙いは全て特攻機に転じられた。
その間隙を縫って、私たちは川面に降りていき水を汲み壕に持ち帰った。そのおかげで私たちは生き残った。特攻隊員の皆様、本当にありがとうございました。』

このような戦争体験者の“実体験”が戦後語られることは余りなかった。

全ては“反軍思想”で彩られ、事実・真実が覆い隠されてきたような思いを感じている。

その一端が「沖縄の集団自決問題」でもある。

まだ読了はしていないけれども、この著作は私たち日本人が“真実”を知り、戦後の呪縛から開放されるためには曽野綾子さんの以下の著作同様に大切な一冊になるような気がしている。

沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった! (ワックBUNKO)沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった! (ワックBUNKO)
(2006/05)
曽野 綾子

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大東亜戦争 | 【2009-06-04(Thu) 12:47:05】
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プロパガンダ施設の「南京大虐殺記念館」
 「3枚」だけ?
 とはいえ、少しは“進歩”したと考えるべきか。
 それにしても「3枚の写真」の内、「日本兵に惨殺された幼児たち」の写真だけは当該の記事に掲載されていない。
 目を覆いたくなる“写真”ではあるけれども、敢えて“転載”させていただくことにした。
 この「日本兵に惨殺された幼児たち」の写真は、『…朝鮮現代史の学術書に掲載されたもので、匪賊(ひぞく)(盗賊集団)に殺された朝鮮の子供たちの遺体。…愛国主義教育の“模範基地”と指定される同館は「悲惨な史実」と紹介してきた』 という経緯がある。
 このような“偽造写真”を数多く展示している“プロパガンダ施設”に「日本の修学旅行生らも訪問している」ことには憤りを感じるが、おそらく「日教組」か「在日」がらみの「修学旅行」なのであろう。
 はたして、「日本軍の蛮行」とされていたものが、実は「中華な民(シナ人or朝鮮人)の蛮行」であったことを知らされた「朝鮮人の末裔」の方々はどのような感慨を抱くのであろうか。
 何れにしろ、「中華な人々」とは違い、「誠」を掲げる「日本人」には、とても出来ない「蛮行」であり、「プロパガンダ」でもある。

“南京大虐殺記念館、信憑性乏しい写真3枚を撤去” msn産経ニュースより
2008.12.17 21:04

20081217msnsankei01〔写真; 南京のものとして展示されていた「上海南停車場」の写真〕

 中国・南京市にある南京大虐殺記念館が、信憑(しんぴょう)性が乏しいと指摘されていた写真3枚の展示を取りやめたことが17日、政府関係者の話で明らかになった。「連行される慰安婦たち」「日本兵に惨殺された幼児たち」「置き去りにされ泣く赤ん坊」の3枚で、日本の研究者らは南京事件と無関係だと指摘していた。中国が同館の展示について“是正”に応じたのは初めて。ただ、30万人という犠牲者数の掲示や“百人斬(ぎ)り”など事実関係の疑わしい展示多数はそのままになっている

20081217msnsankei02〔写真; 慰安婦連行の場面として展示されていたアサヒグラフの写真「日本兵に守られて農作業から帰宅する女性や子供」

 撤去された3枚の1枚は、南京攻略戦の前に撮られ、「アサヒグラフ」(1937年11月10日号)に掲載された写真で、農作業を終えたあと、兵士に守られて帰宅する女性や子供が写っている。これを中国側は旧日本軍が女性らを連行する場面と紹介し、「農村婦女は連れ去られ陵辱、輪姦、銃殺された」と説明していたこの写真は戦後、朝日新聞記者、本多勝一氏の著した『中国の日本軍』や中国系米国人作家のアイリス・チャン氏の著書『ザ・レイプ・オブ・南京』でも、残虐行為と関連づけて紹介されるなど、国内外で繰り返し誤用されてきたことで知られる

20081217msnsankei03〔※写真; 日本軍の蛮行の証拠写真として展示されていた「日本兵に惨殺された幼児たち」の写真〕

 また、幼児たちの写真は、朝鮮現代史の学術書に掲載されたもので、匪賊(ひぞく)(盗賊集団)に殺された朝鮮の子供たちの遺体赤ん坊の写真は米誌「ライフ」に掲載された報道写真で、撮影地は上海。いずれも南京の旧日本軍とは関係ないが、愛国主義教育の“模範基地”と指定される同館は「悲惨な史実」と紹介してきた

 日本側は、事実無根だったと判明している“百人斬り”関係の展示品のほか、誤用や合成と指摘されている写真について、さまざまなルートを通じて撤去を求めてきたが、これまで同館は応じていなかった。

 85年に開館してからの同館の参観者の累計は1897万人。日本の修学旅行生らも訪問している。

“「南京事件」143枚の写真”より(参考; “教科書が教えない歴史”

大東亜戦争 | 【2008-12-18(Thu) 02:19:58】
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旧日本軍が遺棄?
 本当に「旧日本軍が遺棄」した兵器かどうかは眉唾物だ。
 「旧日本軍」は当時の蒋介石率いる「中国国民党軍」に全ての兵器を引き渡している筈なのだが…。

“ハルバ嶺で毒ガス兵器回収 中国、旧日本軍が遺棄” MSN産経ニュース
2008.12.13 12:34

 中国で旧日本軍により遺棄された毒ガス兵器が集中的に埋まっている吉林省敦化市ハルバ嶺で13日午前、日中合同でガス弾の発掘・回収作業が始まった。兵器の種類や埋蔵状態などを調べるための試掘作業で、今回は来年1月19日まで実施し、千発程度を回収する予定。

 化学兵器禁止条約に基づき、2000年から南京市などで計4万5000発の兵器を回収しているが、ハルバ嶺での回収は初めて。

 発掘作業は埋設地の上をテントで覆い、毒ガスが漏出しても拡散しにくいよう低圧にした状態で行う。

 中国に遺棄された化学兵器は大部分がハルバ嶺に埋設されており、30万-40万発と推定されている。試掘を3年行った後、ハルバ嶺で本格的な発掘や処理施設の建設を行う計画。(共同)


20080424.sankei.03 確か、2008年4月24日付の産経新聞(Net View)に掲載された「遺棄化学兵器事業」をめぐる「不正支出事件(PCI/パシフィック・コンサルタンツ・インターナショナル)」絡みの記事。 

『…もともと、この事業は中国側の言い分をほとんど受け入れる形で始められたものだ。終戦後、旧日本軍は化学兵器を含むすべての武器を中国軍や旧ソ連軍に引き渡しており、「遺棄」には当たらないとの見方もあったが、引き渡したことを明解に証明する書類がないとされ、中国にのみ有利な処理案が進められてきた
 しかし、最近、「遺棄」ではないとする証拠が防衛省防衛研究所などで次々と見つかっている。昨年も、中国大陸で旧日本軍が化学兵器を中国側に引き渡したことをはっきり示す文書が、防衛省の関係団体が外務省の依頼で行った調査資料の中に含まれていることが、ジャーナリストの取材で明らかになった。外務省はこれを公表していない。』


“防衛研究所で「化学兵器中国で遺棄」覆す文書見つかる” msn産経ニュース
2007.11.30 20:58

 終戦後、中国大陸で旧日本軍が化学兵器を中国側に引き渡したことを示す文書が、防衛省防衛研究所などに保管されていることが分かった。日本軍が中国で遺棄したことを前提に進められている遺棄化学兵器処理事業は見直しを迫られることになりそうだ。

 この事実は、防衛省の関係団体「財団法人ディフェンスリサーチセンター」が外務省の依頼で行った調査資料の中から、ジャーナリストの水間政憲氏が見つけた。調査資料は今年1月、外務省に報告されているが、中身は公表されていない

 それによると、防衛研究所には、「支那方面艦隊引渡目録」と書かれた3点の文書が保管され、いずれも、引き渡した時期、場所、日本側と中国側の責任者名、品目などが記されている

 例えば、昭和21年1月18日の文書では、引き渡し場所は「上海地区」、日本側責任者は上海海軍特別陸戦隊「海軍中尉 古田小作」、中国側(国民政府)は中国海軍陸戦隊「海軍中尉 陳永禄」、品目は「手投涙弾(催涙弾)二一四〇個」とある。他の2点も、引き渡された品目は「手投涙弾」だ。

 手投涙弾は通称「みどり」とも言われた非致死性の兵器だが、遺棄化学兵器の処理を求めた化学兵器禁止条約(1997年)に伴う日中覚書(99年)では、日本が全額負担して廃棄すべき遺棄化学兵器に含まれた

同センターの資料には、山形県のシベリア史料館に保管されている「旧日本軍兵器引継書」の分析結果もあった。水間氏が存在を確認し、政府が調査していた文書だ。そこからは、台湾で、日本側が中国国民政府に「緑筒」「赤筒」などを引き渡したことを示す文書2点が見つかった。

 緑筒は防衛研究所の文書にある「手投涙弾」と同じ催涙弾だ。赤筒は「くしゃみガス」とも言われた非致死性化学兵器で、日本が全額負担すべき兵器とされている

 これまでに、台湾で日本側から化学兵器が引き渡された文書が防衛研究所にあることは、雑誌「正論」編集部の取材で明らかになっていたが、中国大陸での引き渡し文書が見つかったのは今回が初めてだ。

 中国に残っている化学兵器はすべて旧日本軍が遺棄したものとされ、日本が全額負担しなければならない理由を、外務省は「引き渡したことを証明する書類がない」としてきたが、水間氏の調査により、外務省の主張はますます根拠を失った

 水間氏の調査結果は、1日発売の雑誌「正論」来年1月号で詳しく報告される。



大東亜戦争 | 【2008-12-13(Sat) 16:04:16】
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スネーク・アタック(騙まし討ち)?
【過去の「つぶやき未投稿」シリーズ25】

 「スネーク・アタック(騙まし討ち)」の根拠とされている『手交が遅れた「対米覚書」』を一読する限り、そこには「開戦を直接意味する言葉」は見当たらない。 
 この『手交が遅れた「対米覚書」』は、あくまでも「交渉の打ち切り」を宣言した文章であって、「日本側の開戦の意思」は”「宣戦の詔書」により初めて明らかにされている。
 確かに「対米覚書」の原案には当初、宣戦布告を含む文言が盛り込まれていたようだが、最終的にはそのような文言はなくなっている。
 したがって、日本側からの実質的な宣戦布告は、日本時間の12月8日11時40分に渙発された「宣戦の詔書」ということになろう。
 要は、日本政府は真珠湾攻撃開始の30分前にアメリカ政府の要人(ハル国務長官)に対して「対米覚書(宣戦布告書?)」を直接手渡す予定になっていたということが通説として流布されてはいるが、どうやら真相は別のところにありそうだ。

 もし仮に、『手交が遅れた「対米覚書」』を「宣戦布告書」と捉えるのならば、日本側は既に「ハル・ノート」により「アメリカ側からの宣戦布告を受けていた」、ということにもなる。
 また、真珠湾攻撃よりも数時間前(日本時間午前1時30分)には既に陸軍の第18師団/歩兵第23旅団長の佗美浩少将率いる先遣部隊がマレー半島東北端コタバルに敵前上陸している。
 真珠湾での攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が各機に対して「全軍突撃」の命令を発したのは日本時間で午前3時23分(現地時間午前7時53分)。
 よって、現実には「真珠湾(海軍/対米)」よりも先に「南方作戦(陸軍/対英)」は開始されている。
 確かに、それまでの日米交渉が「戦争回避のための交渉」であったのだから、「日米交渉の打ち切り通告(対米覚書)」そのものが、少なくとも日本側にとっては「宣戦布告」となり得ることは分からないまでもないが、結果、「日本側には敵対国へ開戦前に宣戦布告を通告する意思はなく、あくまでも戦闘開始後に行う予定(計画)」であったと考えることの方が理に適っている。
 何れにしろ、日本非難の目的のためにアメリカ側が未だに喧伝するところの「スネーク・アタック(騙まし討ち)」は、アメリカ自らが「ヨーロッパ戦線に参戦」するための、そしてまた、自らの戦闘行為を「正当化」するためのただの「政治的なプロパガンダ」なのであろう。

大東亜戦争 | 【2008-12-09(Tue) 02:43:32】
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飯田房太大尉
 12月8日を命日とする多くの日本人青年がいる。
 “飯田房太大尉(享年29歳)”もその中のお一人である。
 ことの良し悪し(善悪)は別にして、私はこのような日本人青年がいたことを、同じ日本人として誇りに思っている。

(※以下の文章は「“憂愁”さんの“ホームページ”」より転載させていただいた。)

 飯田房太大尉
 昭和一六年一二月八日(日本時間)、午前七時四五分、飯田房太大尉は、零戦に搭乗して航空母艦 「蒼龍」より発艦し、列機を率いてハワイ・オアフ島へと向かった。オアフ島上空は既に第一次攻撃隊の攻撃によ って猛煙、猛火の中にあった。第一次攻撃隊は奇襲であったために、不意を衝かれた米軍側の反撃はそれ程、激しいものではなかったが、第二次攻撃隊がオアフ島に攻撃を加えたときには第一次攻撃後、防御態勢を整えなおした米軍の対空砲火は熾烈を極めたという。

 飯田隊は迎撃に上がってきた米戦闘機と交戦、これらを撃墜した。オアフ島中部のカネオエ飛行場に駐機していた敵機群を機銃掃射し、大戦果を収めたのであった。飛行場を攻撃した後、飯田機は翼を振り機首を転じて上昇した。列機もこれを追うように続き編隊を組 んだ。しかしこの時、飯田機はカネオエ飛行場銃撃時に敵の対空砲火で被弾して、ガソリンが流出し始めてガソリンが尾を引いていた。編隊を組むと飯田大尉は列機の藤田怡与蔵中尉に対して、手信号で「ワレ燃料ナシ」 と意思を伝え地上を示し、「燃料がない、自爆する」の意味だったのである

 飯田大尉や藤田中尉ら「蒼龍」を母艦とする零戦パイロット達は、ハワイまでの航海途上で毎日のよう にミーティングを行い、飯田大尉は諭すように「常日頃から軍人の最後の決意の重要性について語り、 万一助かるかもしれないなどという女々しい事は考えず、適当な目標物に自爆する」ことを申し合わせていたのである。 そのまま母艦への帰投方向に向ってしばらく飛び、列機にその方向を示した後、飯田大尉は手を 振って別れを告げた後、反転してカネオヘ飛行場の格納庫めがけて垂直に突入して自爆したのであった

 温和な性格から「お嬢さん」と仇名された飯田大尉の凄絶な最期であった。享年二九才の早い最後であった。 飯田大尉の最期に感銘を受けた米軍は、四散した飯田大尉の遺体を拾い集め基地内に埋葬し たのであった。真珠湾攻撃の第二次攻撃隊一六八機のうち、二〇機が未帰還となった。 一九七一年、米海軍は真珠湾攻撃三〇周年を記念して、飯田房太大尉の勇気を讃えて、飯田機が突入した地点に「飯田房太大尉顕彰の碑」を建立したのであった。



大東亜戦争 | 【2008-12-08(Mon) 18:47:29】
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昭和16年の12月8日
 先の日本が戦った“大東亜戦争”には“開戦の詔書”がある。
 いくら「戦後生まれ」だからとは言え、「日本人」であるのならば、一度ならずも何度も読み返してみる必要があろう。
 そこには「真実の歴史」「片鱗(真髄)」が隠されている。

開戦の詔書<現代語訳 (参照;“http://www.ishiikazumasa.com”)>

 天の神々のご助力を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、はっきりと忠誠にして武勇ある汝ら国民に示す。

 余はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。余の陸海軍の将兵は、全力を奮って交戦に従事し、余の政府関係者・官僚・役人のすべては、つとめ励んで職務に身をささげ、余の国民は、おのおのその本分をつくし、億兆の心をひとつにして、国家の総力を挙げ、攻め戦う目的を達成するために、手ちがいのないように心がけよ。

 そもそも、東アジアの安定を確保し、それをもって世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その大いさを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、余も日頃、かたときも忘れずに心がけている事である。

 そういう理由であるから、各国との交流を篤くおこない、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要諦とするところである

 今や、不幸にして、米英両国との争いを開始するにいたった。まことに、やむをえない事態である。どうして、これが余の本意であろうか。


 中華民国政府は、以前より帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を攪乱(かくらん)し、遂(つい)に帝国に武器をとらせる事態(慮溝橋事件)にいたり、現在まで四年が過ぎた。さいわいに、国民政府は、汪清衛・南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するに至ったが、重慶に残存する蒋介石政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟であるはずの南京政府と、いまだに相互の境をはさんでせめぎあう姿勢を改めない。

 米英両国は、蒋介石政権を支援し、東アジアの戦禍と混乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋を征服する非道なる野望をたくましくしている。あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには禁輸措置を意図的におこなって、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。

 余は、政府をして、そのような事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間、隠忍(いんにん)したのだが、米英は、寸毫も譲り合いの精神を持たず、むやみに事態の解決を遅らせ先延ばしにし、その間にもますます、英米による経済上・軍事上の脅威は増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている

 このような事態が、そのまま推移したならば、東アジアの安定に関して、帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、文字通り危機に瀕することになる。

 ことここに至っては、帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、英米による一切の障礙(しょうがい)を破砕する以外に道はない


 皇祖皇宗の神霊は、天にましまし、余は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、 すみやかに英米による禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである
(御名御璽)



大東亜戦争 | 【2008-12-08(Mon) 13:50:00】
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クンユアム旧日本軍博物館
【過去の「つぶやき未投稿」シリーズ8】

 「アジアの国々」は「中国と半島国家(韓国・北朝鮮)」だけではない。
 尚且つ、日本は現行の「中国共産党」、並びに「半島国家」とは戦ってはいない。
 日本が先の大戦で戦ったのは、主に「中国国民党(蒋介石政権)」と「欧米列強の国々」である。
 何故、「ハワイの真珠湾」に「アメリカ合衆国の海軍基地」があったのか。何故、「ミッドウエイ」で「アッツ島」で「アメリカ軍」と戦わなければならなかったのか。何故、「東南アジア」で「インパール」で「イギリス軍」と戦わなければならなかったのか。何故、「オランダ軍」、「オーストラリア軍」と「アジア地域」で戦わねばならなかったのか。
 少しは「歴史」を「国際的」に見つめる必要があろう。「世界」は「日本国」だけで成り立っているのではない。
 少なくともアメリカは、日本に対して「リメンバー・パール・ハーバー」よりも4ヶ月程前から軍事行動を開始していた。
 そのような「史実」さえ覆い隠していたのでは「真実の歴史」は見えてこない。

私はクンユアムに進駐してきた最初の日本兵から、帰還する最後の一兵までを知っている。クンユアムの日本兵は村人と共に働き、お互い協力して生活していた。カンチャナブリの博物館で宣伝される日本軍とは違う。優しかった日本兵を私は忘れない。             

 I know the last one soldier from the first Japanese soldier who has advanced to KhunYuam from whom everyone who returns. A Japanese soldier of KhunYuam lived by working with the villager, and cooperating mutually. It differs from the Japanese army advertised in the museum in Kanchanaburi. I do not forget a gentle Japanese soldier.

ジャルーン・チャオプラユーン(元運輸大臣)
平成17年1月8日 財団設立準備総会にて


“クンユアム旧日本軍博物館”


大東亜戦争 | 【2008-12-05(Fri) 00:45:12】
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「開戦」の決意と理由
 唐突ではあるけれども、先の大戦の“開戦の詔書”を改めて読んで見たくなった。
 矢張り、不思議である。
 もしかしたら、先の大戦を日本悪玉論で語り、日本を糾弾する方々はこの“開戦の詔書(“米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書”国立公文書館)を読んだことがないのではなかろうか。そこにははっきりと戦争の原因とその目的が記されている。
 当時の多くの日本人はこの目的の為に命を賭けて戦った。このことは歴史を真摯に見つめられる目をお持ちの吾人であれば誰もが理解できる事実である。それは何も難しいことではない。歴史を虚心坦懐に紐解けば済むことだ。

「…米英両国は、蒋介石政権を支援し、東アジアの戦禍と混乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋を征服する非道なる野望をたくましくしている。あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには禁輸措置を意図的におこなって、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。

 余は、政府をして、そのような事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間、隠忍(いんにん)したのだが、米英は、寸毫も譲り合いの精神を持たず、むやみに事態の解決を遅らせ先延ばしにし、その間にもますます、英米による経済上・軍事上の脅威は増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。

 このような事態が、そのまま推移したならば、東アジアの安定に関して、帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、文字通り危機に瀕することになる。ことここに至っては、帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、英米による一切の障礙(しょうがい)を破砕する以外に道はない。 …」


 “開戦の詔書”を紐解くたびに、もう一つの“日本の心”である市丸海軍少将の「ルーズベルトに与ふる書」を思い出す。

大東亜戦争 | 【2008-08-07(Thu) 01:39:27】
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ミッドウェー海戦記念日
 忘れていた。昨日は“ミッドウェー海戦記念日”であったそうな。66年前の昨日、アメリカ海軍と大日本帝國海軍との間で熾烈な戦いが演じられた。日本は惨敗。この時以来、日本国は凋落の一途を辿る。日本の一つの分水嶺。それが昭和17年(1942年)6月5日であった。
 この時以来、日本、日本人は、はたして何を学び、何を失ったのであろうか。積み重なる時の流れの中で貴重な歴史を忘れ去ってしまっているような気もする。
 もしかしたら“何も変わってはいない”、のかもしれない。良いも悪いも、そんな想いに心を揺り動かされる日々が時たま訪れる。

2008年6月5日 産経新聞(Net View)より20080606.sankei.01


大東亜戦争 | 【2008-06-06(Fri) 12:30:38】
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帝政ロシアとロシア革命
 ロマノフ王朝(1613年 - 1917年3月15日)。そしてニコライ2世(1894年11月1日 - 1918年7月17日)。日本の歴史に大きな影響をもたらした存在である。“日本の歴史”を知る為には“ロシアの歴史”を知る必要がある。“帝政ロシア”と“ロシア革命(社会主義革命)”。ここに日本(大日本帝国)が“大東亜戦争”に至った原因が隠されている。
 “帝政ロシアの南下政策”と“マルクス主義の勃興”。これこそが“真の戦争の原因”ではなかろうか。少なくとも、一つの“大きな原因(理由)”であったことは否めない。にもかかわらず、この“史実”が今の日本では軽んじられているような気がする。これでは“大東亜戦争の真実”を理解することは到底できないであろう。
 尚、ロマノフ王朝王朝最後の皇帝のニコライ2世一家(7名)は、1918年7月17日、ウラジーミル・レーニンの命令により、幼い子供も含め、一族全員が殺害されている。

2008年5月1日産経新聞(Net View)より20080501.sankei.03


大東亜戦争 | 【2008-06-05(Thu) 01:57:41】
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こんこんちきのおたんこなす。
 本日は“日本の独立記念日”。そして、色々と問題はあるものの終戦記念日”でもある。“8月15日”は決して“日本の終戦記念日”ではない。しかし、それを言うと少なくとも「“ロシア(旧ソビエト)”の“北方領土への侵略行為”が正当化されてしまう懸念がある。だから、余り大きな声では言えないけれども〔8月15日は、ただの“敗戦(降服)記念日”である。
 何れにしろ、不思議なことに“サンフランシスコ講和(平和)条約”が発効された日が未だ“祭日”にはなっていない。世界の国々を見渡せば“独立記念日”“祭日”になっている国は数多くある。なのに日本は“祭日”にはなっていない。何故だろう?。もしかしたら、「“てやんでぇ”精神」のなせる技か。

「何言ってやんでぇ!」「日本はてめえらなんかに独立を与えられたんじゃねぇ!」「“サンフランシスコ講和条約”なんかこんこんちきのへっぽこぽんのおたんこなすだ!」「おとといきやがれ!」

 との“日本(江戸っ子?)精神の表れ”なのであろう。まぁ、日本には“建国記念日(旧紀元節)”があるからよしとするか。

注; 尚、ロシア(旧ソビエト)は“サンフランシスコ講和条約”には署名していない。だから、本来、国際法上は“南樺太”“千島列島”“ロシア領”ではあり得ない。“北方四島”は別物である(参考投稿; “北方領土と千島列島”)。

大東亜戦争 | 【2008-04-28(Mon) 01:03:39】
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安藤輝三大尉
 “大東亜戦争”中の人物ではないけれども、“カテゴリー/大東亜戦争”で投稿する。忘れずに記憶に留めておきたい歴史上の人物の一人である。
 “二・二六事件”の首魁の一人として叛乱罪の罪により処刑された安藤輝三大尉。享年三十一歳。“盗聴二・二六事件(中田整一著)”にその遺書の一部が掲載されていた。

「吾人を犠牲となし、吾人を虐殺して而も吾人の行える結果を利用して軍部独裁のファッショ的改革を試みんとなしあり、一石二鳥の名案なり、逆賊の汚名の下に虐殺され『精神は生きる』とか何とかごまかされては断じて死する能わず」

 陸軍は事件処理に名を借りて、着々と軍部独裁の政治体制を確立していった。青年将校らのテロリズムは、軍国主義の暴走に格好の口実を与える結果となったのである。(上掲書P310)


 “至誠”は“宦官”により利用され陵辱される。“官僚”は“宦官の巣窟”である。これも歴史の訓えかもしれない。現在の私は“二・二六事件”を“軍官僚”の皇道派と統制派の“派閥抗争”の一つとしてとらえている。現代においても変わらない。派閥抗争は世の常である。姦計による人身御供。“至誠”はいつの世も陵辱され、“宦官”は未だに特権を利用して私腹を肥やし大手を振って闊歩し続けている。“二・二六事件”は決して過去の出来事ではない。現代にも通じる“時事問題”の一つでもあろう。そのように私は考えている。諸悪の根源は“官僚体質”にあり。“二・二六事件”は時の政治家と財閥の癒着も含めた広義の意味での“官僚体質”がもたらした悲劇である。そしてその悲劇は、後に拭い去ることのできない数々の惨劇を私たち国民にもたらすこととなる。この歴史(史実)は決して忘れてはならない。それが歴史の非情さに翻弄され命を落とされた多くの先人たちへの現代を生きる私たちの責任ともなろう。
 尚、“Wikipedia”の記述ではあるけれども、安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊に襲撃され、数発の銃弾を身に受けながらも奇跡的に一命を取り留めた後の総理大臣鈴木貫太郎侍従長は、安藤処刑後に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と記者に対して語っているようだ。

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(2007/02)
中田 整一

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大東亜戦争 | 【2008-03-16(Sun) 16:05:04】
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東京大空襲のドラマ
 一昨日(3月10日)、TBS“警察官の石川光陽氏撮影の33枚の写真”をもとにした東京大空襲のドラマを放映していた。ドラマとしては良くできたドラマだとは思ったが、そこは矢張りTBS、色々と問題のある番組に仕上がっていた。
 先ず、本ドラマの放映に入る前に“無差別爆撃は日本軍が中国大陸で既に行っていた”こと、そして“日本軍が先に非戦闘員(一般市民)を虐殺していた”こと等を下記の写真を取り上げることによって暗黙のうちに視聴者に対して印象づけるような構成を行っていた。
 このような主張を見聞きするたびに私は日本軍は“無差別爆撃”をしていなかったのではないかと錯覚してしまう。もし本当に日本軍が非戦闘員(一般市民)を東京大空襲のように意図的に大量に殺戮したとするならばこのような“事故写真”は使われることが無いのではなかろうか。
20080311.jyuukeibakugeki.01 確かにこの写真は「1941年6月28日、中国の戦時首都であった重慶で日本軍の爆撃の犠牲者となった一般市民」の悲惨な姿であることは間違いない事実ではあろう。けれども、決して東京大空襲のような“直接の爆撃被害”ではなく“敵機再来の警報によって起こったパニックで4千人の市民が圧死し犠牲となったといわれている現場写真”であり、日本軍が“一般市民を手当たりしだいに虐殺した証拠写真”では決して無いことだけは理解しておく必要がある。
 したがって“石川光陽氏撮影の写真”に映し出された犠牲者とは根本的にその性質を異にする(私には石川氏撮影の犠牲者の写真をブログにアップすることが出来ない。ご存じない方はリンク先で、あるいは様々な著作で確認していただきたい)。
 確かに“戦略爆撃の犠牲者”という観点からしてみれば同じ犠牲者であることは間違いないことではあるが、しかし“投下目標下の全ての一般市民の殺戮を目的としたアメリカによる東京大空襲”とは明らかに異なる。このことの説明を是非ともしてもらいたかった。むしろ今回のTBSの放映を見る限りにおいては“日本が最初に戦略爆撃(無差別爆撃)を行ったのだから報復されてもしようが無い”、はたまた“悪いのは全て日本軍”というような“敗戦利得者の歴史観”を踏襲するような考え方が垣間見られる。
 とはいえ、今回の番組は他にも色々と疑問点はあったものの、個人的にはそれなりに“史実に基づいた価値のある番組”に仕上がっていたのではないかとは思う。筑紫哲也氏のコメントも珍しくそんなにも偏向しているようには思えなかった。しかし矢張り、個人的な結論を言わせてもらえば、“反米・親中”“敗戦利得者TBS”らしい番組であったような気がする。

大東亜戦争 | 【2008-03-12(Wed) 00:51:40】
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勲一等旭日大綬章
 本日は“3月10日”東京大空襲・戦災資料センター)。“勲一等旭日大綬章(くんいっとうきょくじつだいじゅしょう)”について少し調べてみた。

“日本の勲章・褒章”より20080310.kunsyou.01

 日本の都市に対する無差別戦略爆撃を立案・指揮したカーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay, 1906年11月15日 - 1990年10月1日)は日本政府より昭和39年(1964年)に“勲一等旭日大綬章”を授与されている。ここに“日本の宿痾”がある。その体質は戦後も何等変わってはいない。

カーチス・E・ルメイ大将
…この鬼とも蛇ともつかぬ人殺しの司令官に、何を血迷ったか日本政府の佐藤栄作首相は、この司令官殿、カーチス・ルメイ将軍に、 『勲一等旭日大綬章』を一九六四年に贈っているのである。 カーチス・ルメイ大将は、対日無差別戦略爆撃および原爆投下の直接的な責任者であり指示をした当事者なのである。 戦時中は『鬼畜ルメイ』と呼んでいたこの人殺しに日本政府が勲章を授与 して褒め称えたのである。

 その理由は、『戦後、日本の航空自衛隊の育成に協力した』と言う理由からと、その当時航空自衛隊幕僚であった世渡り上手の源田実旧海軍大佐(後に参議院議員)が、アメリカ側から勲章を授与されていたという理由もあったようではあるが、よりにもよってこの大量虐殺者に勲章を与えたと聞いた犠牲者の家族の無念さが眼に浮かぶようである。一般国民の命など虫けらほどにも思っていないこの国の権力者たちの根性 が透けて見える思いがした。…



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大東亜戦争 | 【2008-03-10(Mon) 23:53:13】
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昭和天皇と三人のご兄弟
 先の大戦を望んでいたのは“一部官僚・政治家(軍官僚等)”“マスコミ”、そしてマスコミに扇動された“大多数の国民”。少なくとも皇室の方々は望んでは居られなかった。あくまでも“国民の意思”を容認し代弁していたに過ぎない。“君臨すれども統治せず”

「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん」 【昭和16年(1941年)9月6日の御前会議にて昭和天皇が詠み上げられた明治天皇御製の短歌】

 当時において“日本の良識”は“皇族の方々”だけが持ち得ていたような気もする。歴史を紐解き見つめているとそのような様相も思い浮かんでくる。
 昭和天皇と3人のご兄弟。この方たちがいなければ今の日本はなかったかもしれない。“一億玉砕”は紛れもない現実となっていた可能性が高い。
 大戦は“官僚・マスコミ”によって惹き起こされ、平和は“天皇”によってもたらされた。このように考えることの方がつじつまが合う。
 換言すれば戦争の真の原因は、“公の精神”を忘れ“私欲”を最大限に求めようとしたその“官僚体質”にあり、“日本の国体”、即ち“天皇制”によって平和は回復した。
 よって、諸悪の根源は“官僚体質”にこそ求められるべきである。そして“官僚体質”の担い手は私たち一人ひとりが持つその“私欲”と、その社会的創造物である“マスメディア”である。このことを顕在化(明示化)しない限り災いは繰り返し私たちの眼前に現れてしまう。
 “戦後民主主義の常識”は覆さなければならない。“大本営”は消滅しても“官僚体質”は未だに生き残っている。“人権”という新たな武器を手に堅固な砦を築き始めている。
 “官僚体質”は特異な“閉鎖社会”を作り出し、その自らが内包する“特権意識”に後押しされて“全体主義的傾向”を醸成させてしまう恐れがある。“全体主義(共産主義・社会主義等)”“官僚体質”の終着駅でもあるようだ。
 自らの安寧を第一の目的として“公の精神”“国家百年の計”は忘れ去られ、刹那的な人生観に支配されて“私利私欲”を追い求め“事なかれ主義”に支配されてしまっている。これが現実の“官僚”の姿であろう。
 何れにしろ“官僚が国を滅ぼす”。このことを肝に銘じなければならない。“軍人官僚”であろうが“文人官僚”であろうがその“官僚体質”に違いはない。

2008.02.19.tennougokyoudai.01 “御真影集”より
大正10年頃
左から皇太子殿下(昭和天皇)
澄宮(三笠宮殿下)、光宮(高松宮殿下)、
淳宮(秩父宮殿下)

欧州から御帰国後に弟宮と日光田母沢御用邸に大正天皇を訪ねられた時の御写真。

第4皇子である澄宮殿下は学習院初等学科にご入学間もなく、光宮殿下は海兵生徒、淳宮殿下は陸士生徒であった。


関連投稿; “秩父宮殿下”

大東亜戦争 | 【2008-02-19(Tue) 18:09:10】
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A級戦犯?
 “ある本”を読んでいて非常に気になってしまった。この著者の方はことあるごとに“A級戦犯”という言葉を“断定的”に使っているように思える。少なくとも私の認識においては“識者”であるならばそれなりの“良識”を兼ね備えているのが当たり前で、そのことからすれば“A級戦犯”という言葉を使うのは勝手ではあるけれども、現在においてはそれなりの疑問を呈していただきたいものである。著者は“戦後未だにアカデミックな学術的な成果を無視した戦前・戦中と同様な歴史観”等のような文言で“戦前・戦中の歴史観”のことを批判されているけれども、だとすれば“戦後のアカデミックな学術的な成果”を無視して未だに“A級戦犯”“断定的”に語られていることが私には不思議でならない。このような“決めつけの認識”は決して“戦後のアカデミックな学術的な成果”を反映しているとは思えない。このことは何もこの本の著者の方だけに限ったことではなく、確かに現在のマスコミや政治家の間でも“当然のこと”として語られていることではあるけれども、政治的な影響を排除して“アカデミックな学術的な成果”だけを基準として考えれば明らかに“A級戦犯”という“翻訳言葉”は“妥当性を欠いている”と考えた方が自然であろう。
 そこで、改めて“A級戦犯”の元となっている“極東国際軍事裁判所条例”を調べてみた。
 すると、矢張り「A“”・B“”・C“”」とはなっていない。この条例の文面からすると、どう見ても「A“”・B“”・C“”」と解釈する方が日本語としては適切であろう。したがって、巷間よく言われているところの「A“”戦犯」とは、本来は「A“”の“CRIMES AGAINST PEACE(平和に対する罪)”」で裁かれた者達のことをいい、日本語で“A級戦犯”という言葉を使う場合に暗黙の内に含まれているの概念、即ち“A“罪が一番重い”という“罪の軽重”を直截に表現した“項目”ではないことだけは確かなようである。
 それを“A戦犯”と日本語で言い換えることによって、本来の意味とは違う別の意味を“戦犯”に対して与えてしまっているような気がしてならない。このことは作為か不作為かは分からないけれども、多くの“識者”といわれる方々は何故に疑問に思うこともせずに当たり前のこととして使用しているのであろうか。まるで“judgments(ジャッジメンツ)”“裁判”“aggression(アグレッション)”“侵略”“United Nations(ユナイテッドネイションズ)”をTPOに応じて“国連”“連合軍”とに意訳して使い分け、そして台湾での“国民投票”“住民投票”と誤訳して平然としている風潮と同様な何等かの“政治的な力”を感じてしまう。(参照; “マスメディアの性(さが)”
 結論を言わせてもらえば、事実・真実を突き詰めれば、由も悪しくも“A級戦犯”と呼称される“戦争犯罪人”は今の日本には一人もいない。にも拘らず“A級戦犯”と喧伝する人たちは“敗戦利得者”か、広義の意味での“中華思想に阿る親中派”の人たちか、あるいは“マルキスト”なのであろう。
 何れにしろ、このような“戦後民主主義者”が日本を駄目にする元凶である。“戦後民主主義”は好い面も多分にあるとは思うけれども、悪い面も数多い。兎も角、“戦後”は全て正しくて“戦中・戦前”は全て間違っていた、と考えること自体が大いなる間違いである。そのような“原理主義的な考え方”が世の中をおかしくする。これでは“敗戦前”と何等変わりがない。
 先ずは、私たち“日本人の意識の中”にある“A級戦犯(戦争犯罪人)”という“認識”を改めることが必要であろう。そのことなくして決して“戦後は終わった”とはいえない。矢張り、もう一度“大東亜戦争を裁く”ことが必要か。勿論、今度は私たち日本人の手で。

 “The Avalon Project at Yale Law School”より

Charter of the International Military Tribunal for the Far East

II JURISDICTION AND GENERAL PROVISIONS

Article 5. Jurisdiction Over Persons and Offenses. The Tribunal shall have the power to try and punish Far Eastern war criminals who as individuals or as members of organizations are charged with offenses which include Crimes against Peace.

The following acts, or any of them, are crimes coming within the jurisdiction of the Tribunal for which there shall be individual responsibility:

(a) Crimes against Peace: Namely, the planning, preparation, initiation or waging of a declared or undeclared war of aggression, or a war in violation of international law, treaties, agreements or assurances, or participation in a common plan or conspiracy for the accomplishment of any of the foregoing;

(b) Conventional War Crimes: Namely, violations of the laws or customs of war;

(c) Crimes against Humanity: Namely, murder, extermination, enslavement, deportation, and other inhumane acts committed against any civilian population, before or during the war, or persecutions on political or racial grounds in execution of or in connection with any crime within the jurisdiction of the Tribunal, whether or not in violation of the domestic law of the country where perpetrated. Leaders, organizers, instigators and accomplices participating in the formulation or execution of a common plan or conspiracy to commit any of the foregoing crimes are responsible for all acts performed by any person in execution of such plan.


“極東国際軍事裁判所条例”より

第2章 管轄及ビ一般規定

第5条(人並ニ犯罪ニ関スル管轄)

 本裁判所ハ、平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス

 左ニ掲グル一又ハ数個ノ行為ハ個人責任アルモノトシ本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪トス

 (イ) 平和ニ対スル罪 即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加

 (ロ) 通例ノ戦争犯罪 即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反

 (ハ) 人道ニ対スル罪 即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為

上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計画又ハ共同謀議ノ立案又ハ実行ニ参加セル指導者、組織者、教唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上為サレタル一切ノ行為ニ付、其ノ何人ニ依リテ為サレタルトヲ問ハズ、責任ヲ有ス



大東亜戦争 | 【2008-02-15(Fri) 22:08:08】
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リンドバーグの証言
 上坂冬子氏の“これでは愛国心が持てない”の著作の中に以下のような記述がある。“リンドバーグ第二次大戦日記”からの転載である。

「…(列の後尾にいた若干名の日本兵は)歩行できないほど飢えており(中略)飢餓のために眼がぎらつこうと疾病の危険性があろうと、われわれは心を動かされなかった。(中略)両手を挙げて投降しようとする先頭の日本兵を撃ち殺しさえすればよかった。(中略)
 かかる一連の出来事が走馬灯のように脳裏をかすめて行く。わが海兵隊が、ミッドウェーの砂浜に寸鉄を帯びないで泳ぎつこうとする日本軍の生存者を撃ち殺した話。(中略)ニューギニアの山越えに南へ飛ぶ輸送機の上から、オーストラリア人が日本軍の捕虜を突き落とした話(中略)。殺されたばかりの日本兵の死体から頚骨を切り出し、ペーパー・ナイフやペン皿を造った話。(中略)歴史を遡れば、かかる残虐行為は古今東西を問わず続けられてきたのであった(中略)
 ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋で日本人に行って来たのである」p236-p237


 このような“連合国側の残虐行為”は色々な著作で目にしてきた。しかし、殆ど一般には語られることが無いように思える。吉田 満著“戦艦大和ノ最期 ”にも、漂流している日本兵に対して容赦ない機銃掃射を浴びせてくるアメリカ軍機のことが書かれていた。大和の乗組員であった著者の体験談である。
 その他にも“畦道を歩いていて機銃掃射された”幼い頃の思い出を語っていた著者がいた。確か五木寛之氏ではなかったか。
 戦後生まれの作家にはこのような“実体験”を語る者は勿論、いる筈はあるまいが“戦争体験者”の著述家は結構、このような“連合国側の残虐行為”について語っている。
 しかし、不思議なことに“日本軍の残虐性”については戦後生まれか終戦当時はろくに世の中のことが分かろう筈もない“年少者”だったにも拘らず、さぞや戦争を体験したようなもの言いで日本の過去の過ちを語るお偉い方々が沢山いる。例えば“大江健三郎”氏。大江氏は1935年生まれ。終戦当時は10歳の子供だった。10歳の子供に何が分かろう。
 私は“明治・大正生まれの戦争体験者”の話は真摯に受け止めるが、“昭和生まれの戦争体験者”の話は余り信用しないことにしている。また、“明治・大正生まれ”でも、例えば“特攻隊員の生き残り”であるにも拘らず“亡き友”を愚弄するような戦争体験者の証言も同様である。
 結果、日本が悪いとかアメリカとか連合国側が悪いとか言うことではなく、戦争というものは“そういうものだ”と理解することしかあるまい。それを“日本だけが悪い”と考えるから世の中がおかしくなる。戦後日本は自ら“日本だけが悪い”と国民を教育してきた。
 戦争は相手があって始めて行われる。相手には相手の言い分。日本には日本の言い分がある。それを一方的に敗者たる“日本の言い分”を封殺し“勝者の言い分”だけが語られてきた。未だにそのような“原理主義的言動”を行っている識者は多い。何故にそのようなバランスを欠いた思索を行えるのであろうか。私には不思議でならない。
 自らが“戦争体験者”ならばまだしも、殆どの場合、“戦争を知らない世代”“日本軍の残虐行為”だけを声高に叫んでいる。

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大東亜戦争 | 【2008-02-07(Thu) 18:51:49】
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伝道者・淵田美津雄
 “真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝”の中に淵田美津雄氏とトルーマン前アメリカ合衆国大統領との会話が記されていた。言わずと知れたトルーマン前大統領は日本に原爆投下を指令した大統領である。

『 …やがて真珠湾が話題に出た。いろいろと当時の模様を話し合っていたとき、トルーマン前大統領は笑いながら、
「キャプテン、真珠湾はね、ボス・ギュルチィ(両者有罪)だよ」
 と言った。私は、
「そりゃ神の前にはボス・ギルュチィでしょうけれど…」
 と言い及ぼうとしたら、トルーマンは遮ぎって、
「いいや、神の前ばかりでなく、人間の前にも、いまに史実としてボス・ギルュチィが明らかになるだろう」
 と言った。…』p365


 今日に至るも極一部の声の大きな反対勢力の敗戦利得者等によって“ボス・ギルュチィ”は明らかにされているとはいえないけれども、垣間見られていることだけは間違いないことであろう。“ルーズベルトの陰謀”とまでは言わないまでも“計画”であったことだけは確かのことであると、現在の私は考えている。連合国側の論理に従えば、それは正に“共同謀議”であったということができる。だとすれば“当事者たち”はいわゆる“A級戦犯”である。確か“極東国際軍事裁判所条例”にはそのように記されていた(第五条)。“共同謀議”“平和に対する罪”にあたると。
 “日本の正義”が多くの人たちに理解されるようになる為にはまだまだ時間は掛かりそうだ。なにせ、“日本悪玉史観”で飯を食っている“人たち”がいる。政権を維持している“国”がある。このような“不正”が糺されない限り“日本の正義”は明らかにされることはない。
 何れにしろ“真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝”はおすすめ本だ。近現代史に興味のある御仁には目からうろこの一冊となろう。

真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝


大東亜戦争 | 【2008-02-05(Tue) 20:24:35】
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対馬丸
 “イデオロギー”無しに心に刻み込みたい。

“対馬丸記念館”より

対馬丸の子どもたちからのメッセージ

今を生きているきみへ

ぼくらは、いまから60年以上前、戦争ばっかりの時代に生まれたんだ。

沖縄が危険になって、九州へ移動しようとしたんだけど
そのとき乗った船「対馬丸」は、アメリカの潜水艦に攻撃されて
沈んでしまった。
海にほうりだされたお友だちのなかには、なんとか生きた子もいたけど
波にのまれて、力つきて、海の底へ沈んでしまったぼくらのような子が
ほとんどだった。
ぼくたちは60年前のあのときのまま、
今もきみの目の前に広がる海の中にいるんだ。
ぼくたちはどうして死ななくちゃいけなかったの?
ぼくたちは、なにか悪いことをしたのかな。

ぼくらのような思いをする子が、もう二度とでないように、
今、ぼくらに約束してほしいんだ、平和に生きるって。

みんなは「平和」ってどんなものだと思う?
アイスクリームみたいに甘くて、おいしいものかな。
大切な友だちがいつもそばにいてくれること?
妹となかよく遊ぶことかな。
朝日にてらされながら学校に行って、
夕日にてらされながらお家に帰ることかな。
好きな子に「ぼくも(わたしも)きみが好きだよ」って
言ってもらったときかな。

きみがその「平和」を感じているとき、
この地球にくらす、たくさんのほかの子たちは、
「平和」を感じているかな。
今でもまだ、世界では
戦争で多くの子たちが悲しい思いをしているのかな。
想像してみて。

今、ぼくらに約束してほしいんだ、
きみが、平和な地球をつくるって。



大東亜戦争 | 【2008-01-30(Wed) 19:23:57】
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真珠湾攻撃総隊長
 またまた読み始めてしまった。悪い癖である。結局、今読みかけの本は約十冊ほど。この中から数冊が積読本に…ならないようにブログに『只今「読書中」の本』のサイドカラムを設定した。これで現在“読みかけ”の本の確認ができる。今までは“この調子”で読み始める本が増えていき、終いにはどの本を読みかけているのかわからなくなり気が付けば積読本に。
 このようなことがないように心がけようと『只今「読書中」の本』のカラムを設定した。これならばブログを開けば“読みかけ本”がひと目で確認できる。意識して積読本にすることもできる。したがって、少なくとも知らず知らずの内に積読本に紛れ込む事だけは防ぐことができるはずだ。そうすれば間違って同じ本を買ってしまうこともなくなるかもしれない。

真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝
(2007/11/30)
淵田 美津雄中田 整一

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 そもそも、何故読みかけの本があるのに新たに読み始めてしまったのか。勿論、淵田美津雄氏に興味があったからこそこの本を手にして購入したのだけれど、何れ暇な時に読み始めようと“積読本”仲間にしておいた。それが、昨夜たまたま手にとり頁をペラペラと捲りながら眺めていると、真珠湾(港)の英雄である淵田氏が「ミズーリ号の降伏調印式に立ち会った」ことと「戦後、キリスト教に回心した」ということが気にかかり読みすすめてしまい「1934年にロンドンで行われた軍縮予備交渉の席上で 「日本海軍が航空母艦の全廃を主張していた」という文章を目にしてしまったからである。淵田氏によればその主張・提案とは「日本海軍の言うところは、軍備は他国を侵しにゆくものではなく、自国を守るだけのものだから、不脅威不侵略の原則に基づいて、攻撃用の兵器は全廃し、防御用の兵器だけにとどめようと前提して、航空母艦というものは攻撃用だからこれを全廃し、なんなら戦艦も廃止してよいとの提案であった。」ということである。
 淵田氏自信はこの海軍の提案に大反対だったらしくその怒りを綴っておられるが、何れにしろ“予備交渉は不調に終わり、翌年のロンドン本会議も決裂し、建艦競争へと突入して、大東亜戦争へと突き進んでいった”ということが、その後の歴史の流れであろう。だとすれば、当然のことながら、この“ロンドン軍縮会議の決裂”がその後の歴史に与えた影響を考えれば大きな意味を持ってくる。そしてこのことは今では“歴史の常識”として考えられていることではないであろうか。少なくとも“軍拡の歴史”が後の大東亜戦争の原因(遠因)の一つであると。
 だからこそそのような重要な軍縮会議の席上で、たとえ予備交渉とはいえ「日本海軍が航空母艦の全廃を主張していた」という事柄には驚いてしまう。もしかしたら周知の事実なのかもしれないが、私の記憶の中にはなかった事柄である。何故か1919年に開催されたパリ講和会議の国際連盟規約委員会で日本が提案し“否決”された「人種差別の撤廃条項」を思い出してしまった。
 はたして「航空母艦の全廃」にしろ「人種差別の撤廃」にしろ日本の提案は悉く“欧米列強の反対”に合い当時は否決されてしまったが、それらの「日本の提案」は間違っていたのであろうか。
 何れにしろ、真贋の程は正直分からないが、全くの“嘘”とは思えない。少なくとも“そのような考えが当時の海軍内部にはあった”ということだけは事実であろう。何か私には「日本(日本人)らしい」提案のように思えてしようがない。おそらく“敗戦利得者”の方々には信じたくない“事実”かもしれないが。何せ“戦前の日本は全て悪”としか考えられない“おめでたい人たち”であるから。
 兎に角これから読みすすめるのが楽しみである。何せ、実際に戦闘に参加されていた方であり、しかもミズーリ号の降伏調印式に立ち会った経験の持ち主であるので、終戦の日によちよち歩きの赤ん坊か洟垂れ小僧が成長して、戦後、あたかも自分こそが戦争体験者といわんばかりの口ぶりで語る戦争物語よりははるかに信用ができる。往々にして“日本悪玉史観”を語る人たちはそのような年代層が多いような気もする。政治家でいえば河野洋平氏(1937年生まれ)や加藤紘一氏(1939年生まれ)もこの世代であろう。そしてその仲間が“戦後民主主義の権化”である、いわゆる“団塊の世代”だ。
 この“団塊の世代”が日本の中枢からいなくならない限り日本は“まともな国”にはなれないと半ば諦めてはいるが、実際には“諦めきれていない”のが現実であり、その憂さ晴らしがこの“つぶやきブログ”でもある。

大東亜戦争 | 【2007-12-18(Tue) 22:59:14】
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12月8日
 久しぶりに“一燈照隅”さんにお邪魔した。
 そうであった。「開戦の詔書」には日本が「大東亜戦争」に踏み切らねばならなかった理由が述べられていた。
 本日は12月8日である。65年前の今日、時の“大日本帝国”は太平洋のハワイ諸島にある“真珠湾の米軍基地”を攻撃した。それは将に“奇襲”であり“貴襲”でもあったと私は考えている。そして、その日は、日本、日本人が、世界へ向けて“怒り”を露にした記念すべき日でもあった。
 戦後62年が経過して、今の日本は“怒り”を“怒ること”を忘れてしまっている。
 今改めて読み返してみたい。先の「大東亜戦争の“開戦の詔書”」を、そして幾多の英霊の呻吟を。先達の多くの教えを。

“一燈照隅”さんより一部転載

…それと同じように世界の歴史を変えることになった大東亜戦争開戦における真珠湾攻撃までの過程を、ようするに原因を正確に調べることに欠けています。 なぜ原因を調べて教えないのか。それは戦後アメリカによって徹底的に行われた日本が悪かった、「日本悪玉論」を教え込まれそれを信じているからです。
アメリカの「真珠湾を忘れるな」に騙されてはいけません。「~を忘れるな」はアメリカが戦争をするときの常套句です。


 さらに“一燈照隅さん”は市丸海軍少将の「ルーズベルトに与ふる書」を掲載してくれている。是非一度御照覧あれ。

市丸 利之助海軍少将(1891年(明治24年)9月20日 - 1945年(昭和20年)3月17日)、硫黄島にて戦死、享年54歳。

“一燈照隅”さんより一部転載

…卿等のなす所を以て見れば白人殊に『アングロ・サクソン』を以て世界の利益を壟断(ろうだん)せんとし有色人種を以て其の野望の前に奴隷化せんとする外ならず。之が為姦策を以て有色人種を瞞着(まんちゃく)し、所謂悪意の善政を以て彼らを喪心無力化せしめんとす。近世に至り日本が卿等の野望に抗し有色人種殊に東洋民族をして卿等)の束縛より解放せんと試みるや卿等毫(ごう)も日本の真意を理解せんと努むることなく只管(ひたすら)卿等の為の有害なる存在となし曾ての友邦を目するに仇敵野蛮人を以てし公然として日本人種の絶滅を呼号するに至る。之豈(あに)神意に叶ふものならんや大東亜戦争に依り所謂大東亜共栄圏の成るや所在各民族は我が善政を謳歌し卿等が今之を破壊することなくんば全世界に亘る恒久的平和の招来決して遠きに非ず。
卿等は既に充分なる繁栄にも満足することなく数百年来の卿等の搾取より免れんとする是等憐れむべき人類の希望の芽を何が故に若葉に於いて摘み取らんとするや。只東洋の物を東洋に帰すに過ぎざるに非ずや。卿等何すれぞ斯くの如く貧欲にして且つ狭量なる。

大東亜共栄圏の存在は毫も卿等の存在を脅威せず却って世界平和の一翼として世界人類の安寧幸福を保障するものにして日本天皇の真意全く此の外に出づるなきを理解するの雅量あらんことを希望して止まざるものなり。
翻って欧州の事情を観察するも又相互無理解に基づく人類闘争の如何に悲惨なるかを痛嘆せざるを得ず。

今『ヒットラー』総統の行動の是非を云為(うんい)するを慎むも彼の第二次欧州大戦開戦の原因が第一次大戦終結に際しその開戦の責任の一切を敗戦国独逸に帰しその正当なる存在を極度に圧迫せんとしたる卿等先輩の処置に対する反揆に外ならざりしを観過せざるを要す。
卿等の善戦により克く『ヒットラー』総統を斃(たお)すを得るとするも如何にして『スターリン』を首領とする『ソビエットロシア』と協調せんとするや。凡そ世界を以て強者の独専となさんとせば永久に闘争を繰り返し遂に世界人類に安寧幸福の日なからん。卿等今世界制覇の野望一応将に成らんとす。卿等の得意思ふべし。然れども君が先輩『ウイルソン』大統領は其の得意の絶頂に於いて失脚せり。願わくば本職言外の意を汲んで其の轍(てつ)を踏む勿(なか)れ」


関連投稿; “開戦の詔書”

大東亜戦争 | 【2007-12-08(Sat) 23:00:30】
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藤田飛曹長
 ひょんなことが切っ掛けで「藤田飛曹長」のことを調べてみた。この方のお名前をご存知の方も多くあろう。「アメリカ本土を爆撃した」唯一の日本人の方である。
 恥ずかしながら、私は「アメリカ本土への爆撃」に関してその事実を「風船爆弾」と共に知ってはいたがその戦闘員(実行者)のお名前までは知らなかった。それも戦後も85歳までご存命で、後に爆撃地のオレゴン州ブリッキングス市から名誉市民の栄誉を受けておられ、そして1997年に亡くなられた後、その遺灰の一部は爆撃地点の山林に埋葬されていることも。

amerika.bakugeki.fujita-hisoutyou
爆撃経路; “アメリカ大陸爆撃物語”より転載

 日本軍(海軍)による「アメリカ本土への“攻撃”」は都合5回行われたらしい(“は太平洋のかけ橋となった男たち”)。内、8日と29日の爆撃が藤田氏らによる爆撃であった。

全て1942年(昭和17年)
  2月23日 サンタバ-バラ砲撃 伊17号
  6月20日 バンク-バ-島砲撃 伊26号
  6月21日 アストリア砲撃   伊25号
  9月 8日 オレゴン爆撃    伊25号
  9月29日 オレゴン爆撃    伊25号


その他参考サイト; “藤田信雄飛曹長” “アメリカ本土を爆撃した唯ひとりのサムライ-藤田信雄” “アメリカ本土空襲(Wikipedia)”

 また、映画の紹介サイトであるようだが“映画 「1941」 より ”のサイトに写真と共に分りやすく説明されていた。

最初の潜水艦による米本土に対する攻撃が行われたのは、開戦後間もない1942年2月のこと。
潜水艦「伊-17」がハワイ南方から進み、サンタバーバラ海峡に侵入。
日没後に浮上して艦載砲で陸上にある油田施設を砲撃。計17発発射して火災を発生させます。

2回目は6月に実施されます。
「伊-26」がシアトル北方バンクーバー島を「伊-25」がアストリア港をそれぞれ砲撃。しかし潜水艦搭載の小型砲ですから小火災を発生させた程度だったようです。

さらに次の攻撃では、潜水艦搭載の小型水上機でアメリカ本土空襲を実施します。
1942年9月9日朝、「伊-25」より76Kg焼夷弾2個を搭載した零式小型水上偵察機1機がオレゴン州の山林地帯に向けて発進します。 藤田飛曹長他1名が乗り組みました。


しかし、同サイトに記されていることだが、以下の話は知らなかった。記憶に留めておくことにしたい。

…実は1941年12月25日クリスマス当日に、西海岸一帯への12隻もの潜水艦による大規模な攻撃が計画されていました。しかし実施直前になって山本五十六連合艦隊司令長官が
「クリスマスの夜はいけない」 と中止させ、立ち消えになります。


 また、「藤田飛曹長」のことを調べていて偶然“シドニーに響いた海ゆかば”の記事を見つけた。そういえばこのような話もあった。将に“恩讐の彼方に”である。本来、「言葉」が違い「皮膚の色」が違っても「心」は通じ合えるものだ。そのことを信じ続けていきたい。

大東亜戦争 | 【2007-12-04(Tue) 22:58:49】
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「最後通牒」の記事
2007.11.24.snkei.01 「今さら」、という気がしないでもない。しかし、未だに「だまし討ち」と米国側から罵られ非難され続けている以上、はっきりとした“真偽”を知りたいとは思う。
 何れにしろ、今の私は、“アメリカの歴史”“共産主義の歴史”を見つめれば分るように「日本が時代の策謀に嵌った」と考えるようになっている。そのように考えるようになった経緯について今ここで一言では言い表せないが、戦後の「日本悪玉史観」に囚われることなく、真摯に歴史を紐解けば、自ずと導かれる結論であると考える。
 現在の日本を形作っている歴史観は「日本悪玉史観」のみならず「マルクス的唯物史観」や「白人優越史観」、即ちその身近な元凶は「東京裁判史観」に辿りつくことになるのかもしれないが、戦後の日本では余りにも歴史を歪めて見つめ過ぎてきているように思える。以前にも“つぶやいた”ことがあるが、それはひとえに「敗戦利得者達」の策略(陰謀)である。
2007.11.24.snkei.02 今ここで歴史を見つめ直すことは決して無駄にはならないであろう。否、寧ろ、必要でさえある。自国の歴史を卑下し、自ら貶めている限りにおいて日本は“まともな独立国”になることはない。何時まで経っても“戦勝国の被保護国”であり続けることになる。それでよしとするならば話は別だが、それでは多くの先達に対して顔向けが出来ない。
 親の汚名を濯ぐのは子の務めであろう。何時までも汚名の下に自らの安住を謳歌していたのでは日本人としてのDNAが許さない。「和を以って尊しとなす」が日本文明の礎であるならば、「誠の心」も日本人としての歴史が培った大切な行動原理である。このことを確りと理解したうえで歴史を見つめ直すことが大切である。「日本の心、日本人の心」の理解なくして歴史を結論づけることは現代人の傲慢以外の何ものでもない。そこからは“真実”は決して見えてこない。怖れることなく“事実”を見つめ“真実”を掴み取ることこそ、より良き未来を築き上げる為には必要である。
 ここで“怖れることなく”とわざわざ言葉にしたのは、結論から言わせてもらえば、「戦争の真の原因は私たち一人一人の心の中にある」、と考えているからである。
 このことの説明は容易ではない。要は、その真の責任は、“軍部”でも“官僚”でも“政治家”でも“マスコミ”でも“日本”でも“中国”でも“ロシア”でも“ドイツ”でも“イギリス”でも“アメリカ”でもない。“人間文明”が具え持つ“業(ごう)”であり“性(さが)”である。したがって“人間”そのものが変わらない限り、“人間性”が変化しない限り、“人間が人間でなくならない限り”、忌むべき戦争が“人間社会”から消え去ることは無い。

 やれやれ、“つぶやく”ことがだんだん(どんどん)厄介になってきた。また別の機会に“つぶやく”ことにしよう。

 結論、“最後通牒”は“取るに足りない問題”でもある。
 真に争い(戦争)の無い平和な世の中を望むのならば視点を大きく広げなければならない。矮小化した(された)事実からは“真実”は見えてこない。“真実”が見えてこなければ“同じ間違い”を繰り返すだけだ。現に今も“間違い(争い・戦争)”は世界のあちらこちらで繰り返され続けている。
 先ずは“一国平和主義の幻想”から覚醒することが必要であろう。我が国、日本としては。
 
 等などと、兎にも角にも色々なことを考えさせてくれる“最後通牒の記事”であった。

※平成19年11月24日付産経新聞(Net View)より

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大東亜戦争 | 【2007-11-24(Sat) 16:40:36】
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坂井三郎さん
ひょんなことから「大空のサムライ」の著作で有名な坂井三郎氏について少し調べていた。私も大分以前になるが「大空のサムライ」を読んだことがある。毎晩寝る前にベットの中で睡眠薬代わりに読んでいたのだが、その時は内容に引き込まれてしまい寝不足になってしまったことを覚えている。

坂井三郎氏の逸話は数多い。色々と感銘を受けた言葉もある。全てを思い出すことは出来ないが一つだけ今でも確りと思い出すことができる言葉がある。何かの著作、あるいはテレビ番組で語っていた言葉で、至って簡単な言葉である。

「自らの生死を自分で決めることの出来る今は素晴らしい時代だ」

坂井氏が一言一句この通り語ったわけではないが、言いたかったことは「今は素晴らしい時代」であり、その理由は「自らの生死を自分で決めることが出来る時代」だからという主意は間違っていないと思う。

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大東亜戦争 | 【2007-10-24(Wed) 19:37:08】
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自戒の言葉